美少女ロボット計画2017 第17章 将来のロボット社会と経済の行方

美少女ロボット計画

此処では美少女ロボットに限らず、それぞれの産業・職業の目的に最適化されたロボット全てに当てはめて考えていきます。

先ず第1段階として人間によって造られたロボットと人間が、つまり人間とロボットの共存社会の時代が来るとします。初期の段階ではロボットは人間の所有物に過ぎない時代で、人間社会でいう『お金』は人間が生きていく上では未だ無くてはならないものです。

此の時代ではロボットを製造する会社が経済の覇権を握っている事は間違いないでしょう。

 

次に第2段階として、日本や世界の先進国の凡ゆる産業分野の会社が従業員を次第にロボットに置き換え、原材料の製造現場から製品の加工、そして販売までを全てロボットに任せる時代が来ると、その製品は一気に値段が安くなるか無料で手に入る時代が来るでしょう。

そうなると競合相手は倒産するか(株の大暴落)、やむなく従業員や製造ラインを完全にロボット化せざるを得なくなります。

此の時代になると人間の失業者がだんだん増えていき、人間がロボットに競争で勝つ為に自らの身体をサイボーグ化する事を目指すエリート人類が登場します。

 

そして第3段階は、

人間・ロボット・サイボーグ

の三つ巴の争い社会が始まります。此の時代になっても、人の価値観によっては昔のように人間同士が愛し合い子孫を残したいと考える人間もまだまだ沢山いるでしょうし、中には不老長寿でありたい為にサイボーグになる人間も少なからずいるでしょうし、

(そのサイボーグの姿は此の計画で言う美少女ロボットの姿なのか、生前の姿を模した物なのか、それ以外の何かでしょう)

此の時代では既に『経済、お金』の概念がなくなる時代に突入しているかもしれません。但し日本だけがそうなると外国人の受け入れや外国からの製品を輸入するのにカネはどうしても必要になってきます。そうなると日本と同レベルにロボットが普及した国の製品しか輸入できなくなると思われます。

此の時代では人間がカネがなくても安心して暮らせるよう、ロボットやサイボーグが身の上の世話をしてくれると願いたいですね、気が遠くなるような遥か未来の話ですが…

美少女ロボット計画2017 第16章 美少女ロボットと考える法律の掟・犯罪の定義

美少女ロボット計画

此処では、日本の法律のうち、ロボットの場合は如何に適用されるかを考えて書いていきます。

六法

憲法民法、商法、刑法、民事訴訟法と刑事訴訟法

憲法については第10章の人権について書いてあるので省略します。

 

民法

第1編 総則

第1章 通則

私権は公共の福祉に適用されなければならない。


第2章 人

第4条、成年の項目について、ロボットは容姿に関係なく成年と同様に扱われる。


第3章 法人


第4章 物

第5章 法律行為

公序良俗)第九十条、公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。

任意規定と異なる慣習)
第九十二条 、法令中の公の秩序に関しない規定と異なる慣習がある場合に於いて、法律行為の当事者がその慣習による意思を有しているものと認められるときは、その慣習に従う。

 

第二節 意思表示

心裡留保)、第九十三条  意思表示は、表意者がその真意ではないことを知ってしたときであっても、そのためにその効力を妨げられない。但し、相手方が表意者の真意を知り、又は知ることができたときは、その意思表示は、無効とする。

(虚偽表示)第九十四条 、相手方と通じてした虚偽の意思表示は、無効とする。

(錯誤)第九十五条 、意思表示は、法律行為の要素に錯誤があったときは、無効とする。ただし、表意者に重大な過失があったときは、表意者は、自らその無効を主張することができない。

(詐欺又は強迫)
第九十六条 、詐欺又は強迫による意思表示は、取り消すことができる。

 

第三節 代理

 

第6章 期間の計算
第7章 時効

第百四十四条 、時効の効力は、その起算日にさかのぼる。

第百四十五条 、時効は、当事者が援用しなければ、裁判所がこれによって裁判をすることができない。


第2編 物権(物権法)
第1章 総則

(物権の創設)

第百七十五条 、物権は、此の法律その他の法律に定めるもののほか、創設することができない。

第百七十六条  物権の設定及び移転は、当事者の意思表示のみによって、その効力を生ずる。

 

第2章 占有権

第一節 占有権の取得

第百八十条 、占有権は、自己のためにする意思をもって物を所持することによって取得する。

第二節 占有権の効力

第百八十八条 、占有者が占有物について行使する権利は、適法に有するものと推定する。

第百八十九条 、善意の占有者は、占有物から生ずる果実を取得する。

善意の占有者が本権の訴えにおいて敗訴したときは、その訴えの提起の時から悪意の占有者とみなす。

第百九十条 、悪意の占有者は、果実を返還し、且つ、既に消費し、過失によって損傷し、又は収取を怠った果実の代価を償還する義務を負う。

第百九十二条 、取引行為によって、平穏に、且つ、公然と動産の占有を始めた者は、善意であり、且つ、過失がないときは、即時にその動産について行使する権利を取得する。

第百九十三条 、前条の場合に於いて、占有物が盗品又は遺失物であるときは、被害者又は遺失者は、盗難又は遺失の時から二年間、占有者に対してその物の回復を請求することができる。

第三節 占有権の消滅

第二百三条 、占有権は、占有者が占有の意思を放棄し、又は占有物の所持を失うことによって消滅する。但し、占有者が占有回収の訴えを提起したときは、この限りでない。

 

第3章 所有権

 第一節 所有権の限界

 第一款 所有権の内容及び範囲

 第二款 相隣関係

用益物権

 

第4章 地上権

第5章 永小作権

第6章 地役権
担保物権
第7章 留置権
第8章 先取特権

第9章 質権
第10章 抵当権


第3編 債権
第1章 総則
債権の目的 - 債権の効力 - 多数当事者の債権 - 債権譲渡 - 債権の消滅
第2章 契約(契約法)
総則 - 贈与 - 売買 - 交換 - 消費貸借 - 使用貸借 - 賃貸借 - 雇用 - 請負 - 委任 - 寄託 - 組合 - 終身定期金 - 和解
第3章 事務管理
第4章 不当利得


第5章 不法行為

第七百九条、故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。

第七百十条  他人の身体、自由若しくは名誉を侵害した場合又は他人の財産権を侵害した場合の何れであるかを問わず、前条の規定により損害賠償の責任を負う者は、財産以外の損害に対しても、その賠償をしなければならない。

第七百十一条  他人の生命を侵害した者は、被害者の父母、配偶者及び子に対しては、その財産権が侵害されなかった場合に於いても、損害の賠償をしなければならない。

第七百十八条  動物の占有者は、その動物が他人に加えた損害を賠償する責任を負う。

第718条改正案

ロボットの占有者は、そのロボットが他人に加えた損害を賠償する責任を負う。

 

家族法の構成

第4編 親族(親族法)


第1章 総則
第2章 婚姻

ロボット、サイボーグとの婚姻を巡る扱いについて

純粋なロボットの場合は個人の所有物として複数所有しても問題ないと考えられます。但し、他人の生命(魂)を宿したサイボーグの場合は生身の人間と同様の扱いになると考えられます。つまり、サイボーグとの結婚は法的に認められることになります。

 

婚姻の成立 - 婚姻の効力 - 夫婦財産制 - 離婚


第3章 親子
実子 - 養子


第4章 親権
第5章 後見
第6章 保佐及び補助
制限行為能力者の監督に関する制度)
第7章 扶養
第5編 相続(相続法)
第1章 総則
第2章 相続人
第3章 相続の効力
第4章 相続の承認及び放棄
第5章 財産分離
第6章 相続人の不存在
第7章 遺言
第8章 遺留分

 

商法

第1編 総則
第1章 通則(第1条 - 第3条)
第2章 商人(第4条 - 第7条)
第3章 商業登記(第8条 - 第10条)
第4章 商号(第11条 - 第18条)
第5章 商業帳簿(第19条)
第6章 商業使用人(第20条 - 第26条)
第7章 代理商(第27条 - 第31条)
第8章 雑則(第32条 - 第500条)


第2編 商行為
第1章 総則(第501条 - 第523条)
第2章 売買(第524条 - 第528条)
第3章 交互計算(第529条 - 第534条)
第4章 匿名組合(第535条 - 第542条)
第5章 仲立営業(第543条 - 第550条)
第6章 問屋営業(第551条 - 第558条)
第7章 運送取扱営業(第559条 - 第568条)
第8章 運送営業
第1節 総則(第569条)
第2節 物品運送(第570条 - 第589条)
第3節 旅客運送(第590条 - 第592条)
第9章 寄託
第1節 総則(第593条 - 第596条)
第2節 倉庫営業(第597条 - 第683条)


第3編 海商
第1章 船舶及ビ船舶所有者(第684条 - 第704条)
第2章 船長(第705条 - 第736条)
第3章 運送
第1節 物品運送
第1款 総則(第737条 - 第766条)
第2款 船荷証券(第767条 - 第776条)
第2節 旅客運送(第777条 - 第787条)
第4章 海損(第788条 - 第799条)
第5章 海難救助(第800条 - 第814条)
第6章 保険(第815条 - 第841条ノ2)
第7章 船舶債権者(第842条 - 第851条)

 

刑法
第1編 総則
  第1章 通則(第一条―第八条)
  第2章 刑(第九条―第二十一条)
  第3章 期間計算(第二十二条―第二十四条)
  第4章 刑の執行猶予(第二十五条―第二十七条の七)
  第5章 仮釈放(第二十八条―第三十条)
  第6章 刑の時効及び刑の消滅(第三十一条―第三十四条の二)
  第7章 犯罪の不成立及び刑の減免(第三十五条―第四十二条)
  第8章 未遂罪(第四十三条・第四十四条)
  第9章 併合罪(第四十五条―第五十五条)
  第10章 累犯(第五十六条―第五十九条)
  第11章 共犯(第六十条―第六十五条)
  第12章 酌量減軽(第六十六条・第六十七条)
  第13章 加重減軽の方法(第六十八条―第七十二条)
第2編 罪
  第1章 削除
  第2章 内乱に関する罪(第七十七条―第八十条)
  第3章 外患に関する罪(第八十一条―第八十九条)
  第4章 国交に関する罪(第九十条―第九十四条)
  第5章 公務の執行を妨害する罪(第九十五条―第九十六条の六)
  第6章 逃走の罪(第九十七条―第百二条)
  第7章 犯人蔵匿及び証拠隠滅の罪(第百三条―第百五条の二)
  第8章 騒乱の罪(第百六条・第百七条)
  第9章 放火及び失火の罪(第百八条―第百十八条)
  第10章 出水及び水利に関する罪(第百十九条―第百二十三条
  第11章 往来を妨害する罪(第百二十四条―第百二十九条)
  第12章 住居を侵す罪(第百三十条―第百三十二条)
  第13章 秘密を侵す罪(第百三十三条―第百三十五条)
  第14章 あへん煙に関する罪(第百三十六条―第百四十一条)
  第15章 飲料水に関する罪(第百四十二条―第百四十七条)
  第16章 通貨偽造の罪(第百四十八条―第百五十三条
  第17章 文書偽造の罪(第百五十四条―第百六十一条の二)
  第18章 有価証券偽造の罪(第百六十二条・第百六十三条
  第18章の二 支払用カード電磁的記録に関する罪(第百六十三条の二―第百六十三条の五)
  第19章 印章偽造の罪(第百六十四条―第百六十八条)
  第19章の二 不正指令電磁的記録に関する罪(第百六十八条の二・第百六十八条の三)
  第20章 偽証の罪(第百六十九条―第百七十一条)
  第21章 虚偽告訴の罪(第百七十二条・第百七十三条
  第22章 わいせつ、姦淫及び重婚の罪(第百七十四条―第百八十四条)
  第23章 賭博及び富くじに関する罪(第百八十五条―第百八十七条)
  第24章 礼拝所及び墳墓に関する罪(第百八十八条―第百九十二条)
  第25章 汚職の罪(第百九十三条―第百九十八条)
  第26章 殺人の罪(第百九十九条―第二百三条)
  第27章 傷害の罪(第二百四条―第二百八条の二)
  第28章 過失傷害の罪(第二百九条―第二百十一条)
  第29章 堕胎の罪(第二百十二条―第二百十六条)
  第30章 遺棄の罪(第二百十七条―第二百十九条)
  第31章 逮捕及び監禁の罪(第二百二十条・第二百二十一条)
  第32章 脅迫の罪(第二百二十二条・第二百二十三条
  第33章 略取、誘拐及び人身売買の罪(第二百二十四条―第二百二十九条)
  第34章 名誉に対する罪(第二百三十条―第二百三十二条)
  第35章 信用及び業務に対する罪(第二百三十三条―第二百三十四条の二)
  第36章 窃盗及び強盗の罪(第二百三十五条―第二百四十五条)
  第37章 詐欺及び恐喝の罪(第二百四十六条―第二百五十一条)
  第38章 横領の罪(第二百五十二条―第二百五十五条)
  第39章 盗品等に関する罪(第二百五十六条・第二百五十七条)
  第40章 毀棄及び隠匿の罪(第二百五十八条―第二百六十四条)

  

特別刑法

道路交通法
自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律
覚せい剤取締法
麻薬及び向精神薬取締法
銃砲刀剣類所持等取締法
爆発物取締罰則

火炎びんの使用等の処罰に関する法律
航空機の強取等の処罰に関する法律ハイジャック防止法
軽犯罪法

私事性的画像記録の提供等による被害の防止に関する法律
児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律

トーカー行為等の規制等に関する法律
新幹線鉄道における列車運行の安全を妨げる行為の処罰に関する特例法
破壊活動防止法

爆発物取締罰則
暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律

ぼったくり防止条例

組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律

不正アクセス行為の禁止等に関する法律

動物の愛護及び管理に関する法律

ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律
人の健康に係る公害犯罪の処罰に関する法律

不正アクセス行為の禁止等に関する法律
売春防止法
青少年保護育成条例
淫行条例
迷惑防止条例

 

ロボット社会と刑法改正案

これより、以上の日本に於ける刑法及び特別刑法で改正または廃止すべきであろう事柄を記述します。

 

人間→人間(現 日本刑法で有罪とされる事柄)

人間→サイボーグ(無罪) サイボーグ→人間(有罪の可能性が高い)

人間→ロボット ロボット→人間(有罪の可能性が高い)

 

サイボーグ→ロボット

ロボット→サイボーグ

 

サイボーグ→サイボーグ

ロボット→ロボット

 

第1篇

第1章 通則

わいせつ罪に関しては、人間同士では有罪とされても人間がロボットやサイボーグにわいせつ罪に相当する行為を行っても罪に問われない。

サイボーグ同士、ロボット同士、サイボーグとロボット相互間で行った場合でも罪にならない。

但し、程度が著しい暴行罪・器物損壊罪、放火罪、窃盗罪、殺人罪に関してはロボットやサイボーグであっても処罰される。

 

第2章 刑

現在の日本では(刑の種類)
第九条  死刑、懲役・禁錮、罰金、拘留及び科料を主刑とし、没収を付加刑とする。

 

ロボットやサイボーグに於いて死刑は意味を成さず、単にプログラムを書き換えることを以って刑の執行をしたものとする。

 

第2篇

第22章 わいせつ、姦淫及び重婚の罪(第百七十四条―第百八十四条)

第174条 公然わいせつの罪

ロボットやサイボーグが公然わいせつをしても罪にならない。

 

第175条 わいせつ物頒布等の罪

ロボット社会に於いて、ロボットやサイボーグ同士がわいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布しても罪にならない。また、ロボット社会に於いて公然とわいせつ物を陳列しても無罪とする。

 

第176条 強制わいせつ

ロボットやサイボーグ同士または人間がロボットやサイボーグに対して強制わいせつをしても罪にならない。

 

第177条 強姦罪

年齢に関係なく、人間がロボットやサイボーグを強姦しても罪にならない。但し人間の所有するロボットやサイボーグに著しい汚損や損壊がみられる場合は傷害罪または器物損壊罪として弁償を求めることができる。

 

第184条 重婚の罪

人間がサイボーグと重婚しても罪にならない。人間がロボットを複数所有しても罪にならないのも然りです。また、ロボット同士、サイボーグ同士、サイボーグとロボット相互間に於いても同様とする。

 

第26章 殺人の罪(第百九十九条―第二百三条)

第199条 殺人罪

人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。

ロボットやサイボーグを殺人目的に使役した人間も同様の罪に問われる。

今の時代では殺人ロボットは現実味を帯びてきており、戦争にもロボットが使われようとしています。戦争については第18章で詳細を書いていきます。

 

サイボーグが人を殺した場合は無期懲役または禁錮刑、プログラム書き換えを以って刑を終えたものとする。

人間と同等の心や人工知能を持つロボットが人を殺した場合は逮捕の上、プログラム書き換えを以って刑を終えたものとする。

 

但しロボットやサイボーグ相互間の殺し合いとロボット同士・サイボーグ同士が殺人に相当するダメージを与えた場合、人間は関与せず、司法権を持ったサイボーグやロボットによってプログラム書き換えや懲役等の処罰は任せるとする。

 

第203条の殺人未遂罪についても同様の扱いとする。

 

第27章 傷害の罪(第二百四条―第二百八条の二)

第204条 傷害

人の身体を傷害した者は、十五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。

ロボットやサイボーグが人の身体を傷害した場合、懲役またはプログラム書き換えを以って刑を終えたものとする。

ロボット、サイボーグ同士または相互間での傷害は罪に問われない。

 

第205条 傷害致死

ロボットやサイボーグが人間を傷害致死にした場合は第199条の殺人罪と同様に扱われる。

 

第28章 過失傷害罪

第29章 堕胎の罪

第30章 遺棄の罪

第31章 逮捕及び監禁の罪(第二百二十条・第二百二十一条)

第220条  不法に人を逮捕し、又は監禁した者は、三月以上七年以下の懲役に処する。

ロボットやサイボーグ相互間では、あまり意味を成さない罪。

 

第32章 脅迫の罪(第二百二十二条・第二百二十三条

第222条  生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫した者は、二年以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処する。

これも傷害罪と同じ扱いとする。

第223条 強要

これも前条と同じ扱いとする。

 

第33章 略取、誘拐及び人身売買の罪(第二百二十四条―第二百二十九条)

第224条から第226

ロボットやサイボーグが人間を略奪・誘拐した場合は罪が成立する。但しロボットやサイボーグ相互間ではあまり意味を成さない罪。

 

226条以降、人身売買の罪は人間同士がすれば罪になりますがロボットやサイボーグ同士相互間では金銭のやり取りが存在しない為に意味を成さない。

 

第34章 名誉に対する罪(第二百三十条―第二百三十二条)

第230条 名誉毀損

人間同士では罪になりますが、ロボットやサイボーグ相互間では罪にならない。

 

第231条 侮辱

人間同士では罪になりますが、ロボットやサイボーグ相互間では罪にならない。

 

第35章 信用及び業務に対する罪(第二百三十三条―第二百三十四条の二)

 

第233条 信用毀損及び業務妨害

人間同士がすれば罪になりますがロボットやサイボーグ同士相互間では金銭のやり取りが存在しない為に意味を成さない。但し、著しい業務妨害を行なったロボットはプログラム書き換えの処置を受ける。

 

第234条 威力業務妨害

これも前条と同じ扱いとする。

(電子計算機損壊等業務妨害

善良なロボットが悪意あるロボットに此の様な罪を行なった場合、悪意のあるロボットは処罰される。

 

第36章 窃盗及び強盗の罪(第二百三十五条―第二百四十五条)

第235条 窃盗及び不動産侵奪

ロボットを窃盗や不動産侵奪に用いた人間は処罰される。金銭のやり取りのない社会で暮らすロボットやサイボーグ相互間での窃盗及び不動産侵奪罪は、プログラム書き換えなどの処置を受ける。

 

第236条 強盗罪

これも前条と同じ扱いとする。

 

第245条 電気

ロボットやサイボーグは電気がないと活動出来ないので、今後の動向が注目される。

 

第37章 詐欺及び恐喝の罪(第二百四十六条―第二百五十一条)

第246条 詐欺

人間同士及び人間が使役するロボットが詐欺を行なった場合、ロボットを使役した人間が処罰される。金銭のやり取りのない社会で暮らすロボットやサイボーグ相互間では詐欺をする必要がなくなる。

 

第249条 恐喝

これも前条と同じ扱いとする。

 

第38章 横領の罪(第二百五十二条―第二百五十五条)

ロボットやサイボーグ相互間の場合は、窃盗罪と同じ扱いとする。

 

第39章 盗品等に関する罪(第二百五十六条・第二百五十七条)

これも窃盗罪と同じ扱いとする。

 

第40章 毀棄及び隠匿の罪(第二百五十八条―第二百六十四条)

第258条 公用文書毀棄罪

第261条 器物損壊罪

これらはロボットやサイボーグが行っても処罰される。プログラム書き換え等の処置をとります。

 

特別刑法改正案

 

道路交通法

自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律

これはロボットやサイボーグが違反した場合でも処罰の対象になります。

 

覚せい剤取締法
麻薬及び向精神薬取締法

ロボットや脳まで完全に機械化されたサイボーグの場合、薬の効き目とかいうものがない為、人間以外には適用されない。但し人間の麻薬犯罪者がロボットを使役して、これを行なった場合は当人が処罰される。

 

銃砲刀剣類所持等取締法
爆発物取締罰則

火炎びんの使用等の処罰に関する法律

これらは人間でもロボットが犯しても罪になります。

 

航空機の強取等の処罰に関する法律ハイジャック防止法

重大な損害に繋がる為、ロボットやサイボーグが行なった場合でも処罰の対象となります。

 

軽犯罪法

軽犯罪法(昭和23年5月1日法律第39号)とは、様々な軽微な秩序違反行為に対して拘留、科料の刑を定める日本の法律です。

 

1、ロボットやサイボーグの場合、人がいない建物や廃墟、船舶に潜む行為についてはロボットやサイボーグが人間に危害を加えない限り、罪は成立しない。

 

2、正当な理由なくして刃物や鉄棒その他の凶器を携帯し隠し持っている罪

これは銃刀法と同じ扱いになります。ロボットやサイボーグが正当な理由なくして人間を攻撃するのを防ぐ為には、プログラム書き換え等の処置が必要になります。

 

3、正当な理由なくして合鍵やガラス切りを所持した罪

ロボットやサイボーグでも不正且つ悪質な場合は罪が成立し処罰の対象となる。

 

4、生計がたてられないのに働く能力がありながら職業に就く意思を有せず、且つ、一定の住居を持たない者で諸方をうろついたもの

ロボットやサイボーグの場合は罪にならない。

 

5、公共の会堂、劇場、飲食店、ダンスホールその他公共の娯楽場において、入場者に対して、又は汽車、電車、乗合自動車、船舶、飛行機その他公共の乗物の中で乗客に対して著しく粗野又は乱暴な言動で迷惑をかけた者

ロボットやサイボーグが人間に対して行なった場合は処置の必要がある場合もありますが、サイボーグやロボット相互間、つまりサイボーグ社会やロボット社会では罪にならない。

 

6、正当な理由なくして標灯や街灯の灯火を消した者

交通事故や偽計業務妨害罪に繋がる恐れがある為、ロボットやサイボーグでも処罰や処置の対象となる。

 

7、みだりに船または筏を水路に放置し、水路の交通を妨害した者

 ロボットが行っても往来妨害罪になります。

 

8、風水害、地震、火事、交通事故、犯罪の発生その他の変事に際し、正当な理由がなく、現場に出入するについて公務員若しくはこれを援助する者の指示に従うことを拒み、又は公務員から援助を求められたのにかかわらずこれに応じなかった者

これはロボットやサイボーグの場合でも適用される罪です。

 

9、建物、森林その他燃えるような物の附近で火をたき、又はガソリンその他引火し易い物の附近で火気を用いた者

放火罪と消防法違反と同じ扱いでロボットやサイボーグが行っても処罰の対象となる。

 

10、銃砲又は火薬類、ボイラーその他の爆発する物を使用し、又はもてあそんだ者

ロボットやサイボーグが人間に危害を及ぼす恐れもあり、ロボットやサイボーグ同士でも致命的な傷害を及ぼす恐れがある為、ロボットやサイボーグが行なっても処罰、処置の対象となる。

政府の許可がないまま銃砲や火薬類を所持した場合は、銃刀法違反や火薬類取締法違反、爆発物取締罰則違反に問われることもある。

 

11、他人の身体や物件に害を及ぼす恐れがある所に物を投げたり注いだり発射した者

ロボットやサイボーグ同士でも致命的な傷害を及ぼす恐れがある場合は程度によって、暴行罪・器物損壊罪・威力業務妨害罪に問われることもある。

 

12、人畜に害を加える性格であることが明らかな犬やその他の鳥獣類を正当な理由がなくて解放し、又はその監守を怠ってこれを逃がした者

ロボットやサイボーグも有害な犬や猛獣類を野放しにしてはいけない。

 

13、 公共の場所に於いて多数の人に対して著しく粗野若しくは乱暴な言動で迷惑をかけ、又は威勢を示して汽車、電車、乗合自動車、船舶その他の公共の乗物、演劇その他の催し若しくは割当物資の配給を待ち、若しくはこれらの乗物若しくは催しの切符を買い、若しくは割当物資の配給に関する証票を得るため待っている公衆の列に割り込み、若しくはその列を乱した者

人間は勿論、ロボットやサイボーグが相互間あるいは人間に対して行なった場合は罪が成立する。プログラム書き換え等の処置が必要になる。

 

14、公務員の制止をきかずに、人声、楽器、ラジオなどの音を異常に大きく出して静穏を害し近隣に迷惑をかけた者

ロボットやサイボーグがこれを行なった場合はプログラム書き換え等の処置の対象とする。ロボット同士での世界では微妙な扱いになる。

 

15、官公職、位階勲等、学位その他法令により定められた称号若しくは外国に於けるこれらに準ずるものを詐称し、又は資格がないのに関わらず、法令により定められた制服若しくは勲章、記章その他の標章若しくはこれらに似せて作った物を用いた者

人間がいる以上はロボットも遵守しなければならない。但し、ロボット社会では罪にならない。

 

16、虚構の犯罪(でっち上げの犯罪)又は災害の事実を公務員に申し出た者

無実の第三者を犯人に仕立て上げて処罰を受けさせる目的で、虚構の犯罪を申告した場合は、虚偽告訴罪となる。これはロボットが人間に対して行なった場合も罪になる。

 

17、質入又は古物の売買若しくは交換に関する帳簿に、法令により記載すべき氏名、住居、職業その他の事項につき虚偽の申立をして不実の記載をさせた者

古物営業法違反に問われる犯罪はロボットが人間に対して行なってはいけない。

但し、金銭のやり取りのないロボット社会では古物のやり取りは好きにできる。

 

18、自己の占有する場所内に、老幼、不具若しくは傷病のため扶助を必要とする者又は人の死体若しくは死胎のあることを知りながら、速やかにこれを公務員に申し出なかった者

人間に対しては罪になりますが、サイボーグやロボットの場合は死の概念がない為、ロボットやサイボーグ同士の保護責任者遺棄致死罪そのものが存在しない。

 

19、正当な理由がなくて変死体又は死胎の現場を変えた者(死体遺棄罪)

ロボットに死んだ人を運んで遺棄する命令をした人間は処罰されるが、サイボーグやロボットの場合は死の概念が存在しない為に意味を成さない。

 

20、公衆の目に触れるような場所で公衆に嫌悪の情を催させるような仕方で尻、太ももその他身体の一部をみだりに露出した者(公然わいせつ罪)

人間同士では罪であっても、ロボットやサイボーグはエロいことをしても罪にならない。

 

21、動物愛護法に移動

ロボットやサイボーグもペット類の動物を虐待したり殺したりすると処罰される。

 

22、こじき、又はこじきをさせた者

ロボットやサイボーグの場合、金銭のやり取りをしなくても生きていけるので、ロボットやサイボーグがコジキ行為をしても意味がない。

 

23、正当な理由がなくて人の住居、浴場、更衣場、便所その他人が通常衣服をつけないでいるような場所をひそかにのぞき見た者

人間がいる以上、ロボットに覗きをさせ録画したものを人間に頒布すると罪に繋がるが、ロボットやサイボーグ同士は覗きをしても罪にならない。

 

24、公私の儀式に対して悪戯などでこれを妨害した者

程度によっては、威力業務妨害罪・偽計業務妨害罪・礼拝所及び墳墓に関する罪に問われることもある。

ロボットやサイボーグも儀式を妨害すれば罪に問われる。

 

25、川、みぞその他の水路の流通を妨げるような行為をした者

ロボットやサイボーグでも公共物を破壊するのは犯罪です。それによって浸水などの被害を与えたときは、出水及び水利に関する罪、河川法の指定する河川に対して行う場合は同法違反に問われることもある。

 

26、 街路又は公園その他公衆の集合する場所で、たんつばを吐き、又は大小便をし、若しくはこれをさせた者

人間として(特に女の子は)見苦しい行為ですが、ロボットや完全に機械化されたサイボーグは大小便もしないし、痰唾も出ないし鼻くそも出ない。但し美少女ロボットに限ればマンコの尿道口から水が出る遊びができるように造られる予定ですが、野外や公共の場でそんな遊びをするのは見苦しいので、意図的に人間の悪戯を処罰するに限られます。

 

27、公共の利益に反してみだりにごみ、鳥獣の死体その他の汚物又は廃物を棄てた者

ロボットやサイボーグも、人間も無秩序にゴミを捨ててはいけません。

 

28、他人の進路に立ちふさがって、若しくはその身辺に群がって立ち退こうとせず、又は不安若しくは迷惑を覚えさせるような仕方で他人につきまとった者

ロボット社会に於いて、ロボットやサイボーグ同士が此の様な行為を行っても罪にならない。(ストーカー規制法も)

 

29、他人の身体に対して害を加えることを共謀した者の誰かがその共謀に係る行為の予備行為をした場合における共謀者

殺人未遂罪・傷害未遂罪と同じ扱いとする。

 

30、人畜に対して犬その他の動物をけしかけ、又は馬若しくは牛を驚かせて逃げ走らせた者

程度によっては、道路交通法違反、威力業務妨害罪や偽計業務妨害罪に問われることもある。ロボットやサイボーグであっても処罰される。

 

31、他人の業務に対して悪戯などでこれを妨害した者

これはロボットやサイボーグであっても処罰される。

 

32、入ることを禁じた場所又は他人の田畑に正当な理由がなくて入った者

ロボットやサイボーグの場合は害のない限り罪にならない。

 

33、みだりに他人の家屋その他の工作物にはり札をし、若しくは他人の看板、禁札その他の標示物を取り除き、又はこれらの工作物若しくは標示物を汚した者

ロボットやサイボーグでも、悪質な場合は罪に問われる。

 

34、公衆に対して物を販売し、若しくは頒布し、又は役務を提供するにあたり、人を欺き、又は誤解させるような事実を挙げて広告をした者

人間に対して行なった場合は罪になりますが、ロボットやサイボーグ相互間では金銭面でも何の利害関係を成さないものであれば罪は成立しない。

 

 

 私事性的画像記録の提供等による被害の防止に関する法律

(リベンジポルノ被害防止法)

ロボットやサイボーグに性犯罪は意味を成さない、寧ろ正当化される。よってロボットやサイボーグにエロは罪にならない。

 

児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律

人間が対象であれば罪であっても、ロボットやサイボーグを対象にした場合は罪にならない。また、人間がロボットに・ロボットやサイボーグが同士若しくは相互間で行なった場合も罪にならない。ロボットやサイボーグのロリ単純所持規制も無効とする。

そしてロボット社会ではエロゲーのモザイク規制もなくなる。

 

トーカー行為等の規制等に関する法律

ロボット社会に於いて、ロボットがサイボーグをストーカーしたとする。相手はロボットだからプログラム書き換え等の処置をすればいい。ロボットやサイボーグが人間を相手にストーカーするのも同じです。でもロボットやサイボーグが互いにストーカー行為をしても、ロボット社会ではあまり秩序は乱れないと思われる。

 

新幹線鉄道における列車運行の安全を妨げる行為の処罰に関する特例法

ロボットやサイボーグは基本的に公共物を破壊する事はしない様にプログラムされております。

 

破壊活動防止法

ゼネスト禁止法案と集会デモ取締法案、団体等規制法案が、治安三法と呼ばれています。

そもそもロボットが社会の秩序を乱す事を目的に造られている訳ではありません。

 

爆発物取締罰則

爆発物は人間だけでなく、ロボットやサイボーグにとってさえ致命的で回復不可能な傷害を及ぼす物なのでロボット社会でも取締ります。

 

暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律

美少女ロボットを始めロボットやサイボーグは暴力団(ヤクザ)と関わらせないようにします。

 

ぼったくり防止条例

ぼったくり店は居酒屋系や性風俗店に限らず、大阪ではぼったくり服屋とかソフトバンクのぼったくり店員なども多様に存在します。

ロボット社会ではロボットやサイボーグは金銭のやり取りをしなくても生きていける故に、その様な経済活動は意味を成さなくなります。

 

組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律

当然、ロボットやサイボーグにもさせるわけにはいけない犯罪ですが、ロボットやサイボーグにとって覚醒剤大麻、違法薬物はもとより、金銭のやり取りをしなくても生きていけるので此の様な組織的犯罪を敢えてする必要はありません。

 

不正アクセス行為の禁止等に関する法律

人間の財産やプライバシー、信用を侵害する事を目的とした不正アクセスは勿論犯罪です。では、ロボットやサイボーグの場合はどうでしょうか?

ログインが必要なTwitterfacebook、オンラインゲームのパスワードなど

ロボット同士では金銭のやり取りはないとして、サイボーグの場合は信用毀損だけが不正アクセス罪と見做す事が出来ます。

 

動物の愛護及び管理に関する法律

軽犯罪法21番と同じくして扱います。

 

人の健康に係る公害犯罪の処罰に関する法律

工場や事業所などの事業活動によって人の健康に害が及ぼされるもので、事業活動に伴って人の健康に係る公害を生じさせる行為等を処罰する法律です。

ロボット社会ではサイボーグとロボット相互間、サイボーグ同士・ロボット同士でも致命的な被害を受けることはありません。但し人間や動物たちの環境を著しく破壊する様な公害は控えるべきです。

 

ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律

第三条  何人も、人クローン胚、ヒト動物交雑胚、ヒト性融合胚又はヒト性集合胚を人又は動物の胎内に移植してはならない。

第十六条  第三条の規定に違反した者は、十年以下の懲役若しくは千万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。

ロボットやサイボーグの時代が本格化すれば人口は確実に少なくなります。ロボットの社会では人クローン技術を規制する事すら意味を成さなくなる時代が来るでしょう。

 

売春防止法

人間同士ではタブーとされても、人間がロボットやサイボーグと売春するのは罪にならない。金銭のやり取りもしないロボット社会では、なおさら犯罪にならない。ロボットにエッチをするのは合法です。

 

青少年保護育成条例

18歳未満の人間に対して、深夜の外出・酒たばこ・エロ本エロゲーを規制する条例です。サイボーグやロボットには年齢は関係なく、深夜の外出やエロも好き放題にすることが出来ます。これで人間の女の子と差別化する目論見も無いとは言えないでしょうね?

そうです。未成年者でもエロマンガエロゲーのキャラクターをロボットという設定にすればどんなにエロ過ぎる事を見てもしてもいいのです。

 

淫行条例

人間の女がダメならロリっ子ロボットやサイボーグの女に対してなら、どんなにエロいことをしても罪にならない。

 

迷惑防止条例

痴漢、盗撮、覗き等の性犯罪はロボットやサイボーグの女に対して行なった場合は罪にならない。これによって人間の女との差別化を図る目論見で、将来の社会情勢が大きく変わってくる分野だと思われます。

 

美少女ロボット計画2017 第15章 美少女ロボット計画と政治

美少女ロボット計画

政治とは「人間集団に於ける秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営みで、権力・政策・支配・自治にかかわる現象」または「1. 主権者が、領土・人民を治めること。2. ある社会の対立や利害を調整して社会全体を統合するとともに、社会の意思決定を行い、これを実現する作用。」です。

政治とは社会に対して全体的な影響を及ぼし、社会で生きるひとりひとりの人の人生にも様々な影響を及ぼす複雑な領域です。

政治は、社会や社会に生きるひとりひとりの人にとって 、そもそも何が重要なことなのか、社会がどのような状態であることが良い状態なのか、ということも扱い、様々ある人々の意志からどれを選び集団の意志とするか、どのような方法でそれを選ぶか、といった事とも深く関係しています。

客観的な観点に立てば、政治は社会に対して秩序を与えており、またその動態を制御するための制度が考案されています。

領土と国民を主権の下で統治するという国家の制度や、国家を組織運営する立法府(国会)、行政府(内閣・官庁)そして司法府(裁判所)という政府組織、そして統治者を選出するための民主主義の原則に基づいた代議制など、数多くの政治的制度が存在します。

次に政治の規範的問題に移れば、多種多様な政治イデオロギーがこの問題に応答しています。政治イデオロギーとは後述するように様々な問題に対する政治的態度を指導する観念の体系であり、代表的なものに自由主義共産主義社会主義などがあります。さらに宗教原理主義までをも含めればさらに政治的態度の種類は多様なものになります。

これらの思想や態度が主要な論点としている規範の問題は人間本性や社会の自然なあり方、そして自由や平等、さらには幸福や正義などの理念を踏まえた上での統治者の権力、被治者の権利などに及びます。

 

政治の原理

政治権力

権力の本質をめぐる議論から分かるように、権力の概念とは論争的なものであり、権力は権威や暴力などの概念との関係の観点からも議論されます。

権力の機能には他者の積極的な服従と消極的な服従の両方が含まれます。他者の積極的な服従を獲得する能力は厳密に言えば権力と区別して権威と呼ばます。

一方で権力は消極的な服従を強制的に獲得する機能も持つことに着目することができます。ドイツの政治思想家カール・マルクスや革命家ウラジミール・レーニンは権力を国家権力に限定して捉え、それが支配階級であるブルジョワジーによって運営されるプロレタリアートに対する暴力的な強制装置であると考えました。このマルクス主義的な権力理論によれば、国家に支配される国民は抑圧されていると考えられます。

 

政治道徳

政治に於いて正義とは適切な均衡が存在する状態を言います。此の基本的な正義の概念を理解する上で古代ギリシアの哲学者プラトンの議論が参考になります。

プラトンは『国家』に於いて正義は個人に於いては理性、意志、情欲の三つが精神的に調和している状態であり、国家に於いては政治家の知恵と軍人の勇気、そして庶民の節制の精神が調和している状態を指すものと論じました。然し均衡をどのように実現するかについては、アリストテレスにより『ニコマコス倫理学』で正義を道徳的に正当な利害の配分と捉え、もしこの配分が正当な均衡を失えば、それは不正な状態であるために是正しなければならないと論じられました。

正義論での諸々の立場は倫理学では徳倫理学功利主義、そして義務論に系統化することができます。徳倫理学プラトンアリストテレスに代表される立場であり、如何に善い状態になるのかを主眼に置いています。

そして義務論はイマヌエル・カントに代表される理論であり、理性を以って義務を確立し、それを実施することを正当化する。これらの道徳理論は政治理論や政治イデオロギー、公共政策を正当化しています。

 

政治システム

イーストンは『政治分析の基礎』に於いて政治システム論を展開しています。政治を一つのシステムとして捉え、環境からもたらされる入力を変換して社会に価値を権威的に配分し、出力するものというモデルを構築しました。政治システムは入力の過程から始まり出力の過程で終ります。この入力とは環境からの要求や指示であり、出力とは社会を公的に制御することに関する制作活動です。出力を終えるとフィードバックが始まります。出力された結果は社会に影響を与えてまた新たな支持や要求などの入力過程を齎します。

 

政治システムは入力機能を政治的社会化と補充、政治的コミュニケーション、利益表出、利益集約があり、出力機能にはルールの作成である立法、ルールの適用である行政、ルールの裁定である司法の三つの機能があるとする。政治システム入力機能である政治的コミュニケーションはマスメディア、利益表出機能は利益団体、利益集約機能は政党が機能を果たしています。

 

国家

国家の要件としては、限られた国境線で区分された領域性を持つ領土、領土内で秩序を構築する法律を制定してこれを維持する排他性を持つ主権、そして其処に居住する住民の言語的、文化的な統合性を持つ国民の三要素が挙げられます。

また近代国家では権力の極端な一元化を避けるための権力の分散の必要性も述べられました。法を制定する立法権、法を適用して判決を下す司法権、そしてそれを除いた国家作用の全てを包括する行政権の三つを分離させて均衡させることをモンテスキューが『法の精神』で論じられた。これが三権分立です。

 

但し、ロボットの社会では権力の一元化、つまり国王などによる絶対君主制でも共産党による一党独裁制社会でも暮らしていく事は可能だと考えられます。

 

政府

政府は国家に於いて安定的な支配を維持するための体制です。政治過程に於いても構造的な影響を与えるものであり、基本的な政治分析の際にも政治体制は注目されます。

歴史上、君主制、貴族制、共和制、民主制、独裁制など様々な政府形態が採用されてきました。

民主主義は国民の政治参加と自由な活動に価値をおく政治体制であり、社会に於ける多様な利害関係や価値観の対立を政治の場で解決することを重視します。独裁制と対比されることもあり、現代では世界的に重要視されている政治理念でもあります。国民が直接的に政治に参加する直接民主制と代議員を国民から選出して政治に間接的に参加する間接民主制があります。民主主義の下では政党制、選挙制度また投票行動などが政治過程に影響するようになります。

 

世界の政治体制には政治秩序だけではなく全体主義と呼ばれる体制を保持している国もあります。全体主義とは個人に対する社会の優越を基礎として凡ゆる思想、生活、社会活動などを統制しようとする政治体制です。これはかつての専制政治とは凡ゆる観点から異なったものでした。

20世紀に於ける近代技術に基づいた大衆社会の操作性に起因するものです。単一の政治勢力が、社会の価値観や生活様式、政治的な言論を含めた社会全体を再構築し、個人を監視して時には拘束した。ドイツのナチズムやイタリアのファシズム、旧日本の軍国主義ソビエトスターリニズムなどが歴史的な事例として挙げられます。

 

権威主義と呼ばれる体制も民主主義の対極にある政治体制として論じられますが、全体主義と混用される場合も多いです。権威主義全体主義のように大衆を統制したり教育したりすることは意図していません。だが権威主義の政治体制に於いては上層部を占める少数の政治勢力によって大衆の政治参加は最低限に抑制されます。

 

市民社会

市民社会とは政治において政府の対概念であり、政治に参加する国民の構成員から成る公共的な領域のことです。

 

政治イデオロギー

イデオロギー

政治を人間社会の集合的な意思決定と捉えた場合に、その社会の正義がどのように設定され、どのように達成されようとするのかは非常に重要な問題になってきます。此の問題と密接に関わるのがイデオロギー(Ideologie)です。これは国家や階級などの一定の社会集団が保有する政治的な観念です。これは価値体系とも呼ばれ、ある主体の政治的な立場の思想的、理論的な基盤ともなっています。

イデオロギーはいくつかに分類できます。その最も代表的なものとして挙げられるのが保守主義進歩主義です。

保守主義が右翼、進歩主義が左翼という分け方で、此の様なイデオロギー政治勢力の分裂と対立を齎し得る重要な要素であり、冷戦期においては資本主義と共産主義イデオロギーを巡る思想の争いが国際政治に影響しました。

 

イデオロギーの終焉

然しイデオロギーの終焉を論じる学説もあり、レイモン・アロンは20世紀に於いて経済発展がイデオロギー的な対立を緩和するように働いていることを指摘し、ダニエル・ベルは『イデオロギーの終焉』を著してイデオロギーが知識人の支持を近年失いつつあることを論じました。

先進資本主義諸国に於ける「豊かな社会」の到来と共に、階級闘争を通じた社会の全面的変革なる理念はその効力を失ったとする論です。

ベルやシーモア・M・リプセットら、イデオロギーの終焉論者によれば、今や必要なのは不確定な観念的要素に満ちたイデオロギー的構想に基づく社会の全面的変革ではなく、信頼のおける科学的知識と技術とを用いた社会の部分的改造のつみ重ねである。そして、そのなかでイデオロギーという概念は死語になりつつあり、資本主義国家と社会主義国家は今後、イデオロギー対立を超えた共通の方向に向かうと考えられています。

 

民主主義

民主主義は、封建的な王侯貴族ではなく、税金を払う市民を中心に政治を行うことを主張する政治思想です。個人の権利は、その個人が積極的に政治に参加することによって実現するものです。

 

欠点

議論や意思決定が民衆(愚民)のレベルで行われるためエリートによる統治より衆愚政治に陥り易い事、多数決では多数派支配となりやすい事、特に議会制民主主義では議員は特定の地域・民族・階級・職種の利益代表になり易く利益誘導型の政治になり易い事、逆に勢力が均衡している場合には議会での駆け引きや妥協により矛盾した決定や中途半端な決定が行われやすい事、頻繁な政権交代では政策の継続性が失われやすい事、また直接民主主義では意思決定者が全体であるために逆に実現可能性の低い無責任な決定がされる場合がある事、更には民主主義を人間に平等に与えられた自然権である人権のひとつとする自由主義思想や社会契約論には科学的な根拠は無い事、民主主義を否定する思想や集団に対しても民主主義的な自由を適用すべきかとの根源的な議論がある事、などが挙げられます。

 

自由主義

自由主義は個人の権利を保護し、選択の自由を最大化する事を主張する政治思想です。

啓蒙思想から生まれた近代思想の一つであり、人間は理性を持ち従来の権威から自由であり自己決定権を持つとの立場から、政治的には「政府からの自由」である自由権個人主義、「政府への自由」である国民主権などの民主主義、経済的には私的所有権と自由市場による資本主義などの思想や体制の基礎となり、またそれらの総称とされています。

 

自由主義・完全自由主義リベラリズムリバタリアニズム)は

自由主義では徴税について、ある程度寛容なのに対し

完全自由主義では大富豪から高額な徴税をすることを非難しています。

社会主義などの左翼思想は個人的自由は高いが経済的自由は低く、保守主義などの右翼思想は経済的自由は高いが個人的自由は低く、ポピュリズム(ここでは権威主義全体主義などを指す)では個人的自由も経済的自由も低い、という位置づけとなります。

リバタリアンの多くは経済的自由と政治的自由の両方を重視するため、社会主義などによる国営化や計画経済も、ファシズム軍国主義などによる統制経済開発独裁も、何れも経済的自由が低い「集産主義」であるとして批判し、同時にまた、共産主義などの一党独裁も、ファシズム軍国主義などの言論統制も、何れも政治的自由が低い「全体主義」であるとして批判する場合が多いです。逆に左翼からリバタリアニズムへの批判には弱肉強食の強欲資本主義であって、右翼からリバタリアニズムへは伝統的価値や社会の安定を軽視しているなどと批判されます。

 

保守主義

保守主義は原則として急進的な革新を否定し、従来からの伝統・習慣・制度・社会組織・考え方などを尊重し、既に確立された社会の秩序を保持することを主張する政治思想です。イスラム教国、右翼派、極右が当てはまります。

エドモンド・バークは現存する伝統は歴史的な試行錯誤の結果であり、全てが悪いわけではないと考えていました。「もし政治制度を改革するならば、革命という手段ではなく、時間をかけて段階的に調整するべきである」と論じていました。

 

社会主義

社会主義は一般的に生産手段を社会的に管理することを主張する政治思想です。

個人主義的な自由主義経済や資本主義の弊害に反対し、より平等で公正な社会を目指す思想、運動、体制を指します。

歴史的にも社会主義を掲げる主張は多数あり、共産主義社会民主主義、無政府主義、国家社会主義なども含まれています。

自由主義に対する批判としてカール・マルクスは独自の政治理論を発展させました。マルクスは経済学的研究を通じ、資本家の下で労働者は価値を生産するが、その価値の一部だけが賃金として支払われており、余剰価値は資本に奪われる資本の法則を明らかにしました。

つまり労働者は自らの労働に見合った賃金がないために市場の商品を購入することができない不公平が生じる。

レーニンのような急進的な社会主義者は此の不平等を是正するために政治秩序の変革を強いる革命を主張する一方でベルンシュタインのような穏健な社会主義者は修正主義とも呼ばれ、労働者の生活状況を改善する福祉国家の確立を主張しました。

 

社会民主主義

社会民主主義は議会政治を通した民主的な変革を目指し、マルクス主義の暴力革命論を否定する(反共産主義)。社会改良主義、民主社会主義などや、広義にはマルクス主義の立場を堅持しながら多党制を支持し暴力革命を否定した修正主義、構造改革主義、ユーロコミュニズムなども含む。国際組織に社会主義インターナショナルなどです。

 

無政府主義(アナキズムアナーキー

無政府主義は個人主義的な立場、自由主義的な立場、社会主義的な立場など多様な思想の総称ですが、社会主義的な立場では権力の集中に反対して地域コミュニティや労働組合主義などを目指します。マルクス主義権威主義と批判しています。

 

サンディカリスム

サンディカリスム(労働組合主義)は、コーポラティズム(共同体主義)の側面を持ち、労働組合ゼネストで資本主義体制を倒し、革命後は政府ではなく集産主義的な労働組合の連合による経済や社会の運営を目指しています。より急進的で革命的な思想にアナルコサンディカリスムというものがあります。

ゼネストとは、ゼネラルストライキの略語で全国規模で行われるストライキを意味する)

資本家や国家主導の経済運営ではなく、集産主義的な労働組合の連合により経済を運営するというもので、資本主義あるあるいは社会主義に代わるものとして提案された経済体制の一種またはその思想です。

またサンディカリスムに於いて、経済を運営している労働組合は政治を行う政府とは独立して存在しており、政府による計画経済などを必要とはしない。資本主義に於ける企業同様、サンディカリスムに於ける労働組合は互いに複雑な協力関係を共有し、政府と対立することもあります。

 

共産主義

共産主義は、産業の共有によって搾取も階級もない社会を目指します。個人的には、現在の日本を変える事が出来るのは共産党しかないと思います。

 

なおマルクス・レーニン主義では、資本主義社会から共産主義社会に発展する中間の段階を「社会主義社会」と呼ばれました。

19世紀後半にカール・マルクスフリードリヒ・エンゲルス共産主義思想を体系化し、唯物史観を基本に生産手段の社会的共有と私有財産制の廃止による共産主義革命を掲げた「マルクス主義科学的社会主義)」が共産主義思想の有力な潮流となった。また十月革命の成功によるソビエト連邦の成立により、ウラジーミル・レーニンによる革命的な党の組織論などをマルクス主義に総合した「レーニン主義」が影響力を高め、後に「マルクス・レーニン主義」として定式化された。更にレフ・トロツキーによるマルクス主義の概念である「トロツキズム」、毛沢東による当時の中国の状況に適合させたマルクス主義の解釈である「毛沢東主義」など、マルクス主義は革命の起こった国の指導者の考えや国情により多数の思想や理論、運動、体制となり世界へ広まっていきました。

 

政治的相互作用

政党

政党とは政治的な理念や目的を共有し、それを達成するために活動する団体です。

政党は基本的には私的結社でありますが、議会に参加する意味で公的主体でもあり、多くの国が政党の活動に助成金を出しています。政党にはさまざまな政治的な機能があります。個別的で多様な国民の意志をまとめあげて議会に媒介する利益集約機能は最も代表的なものです。さらに政治的指導者の選出機能、意思決定の組織化機能、市民を政治的に関与させる機能、政権担当および批判機能の機能などもあります。

 

政治意識

政治意識は政治への関心、態度、行動の様式を示す概念で、政治的社会化によって得られます。政治教育によって政治意識を合理化することが出来ます。

 

マスメディア

マスメディアは政治社会に於いて人々を政治参加や政治活動に向かわせます。マスメディアは市民社会に於いて議論された公共的な意見である世論を反映し、政府が行う政策を社会に紹介する、媒介者としての役割を担っています。

中立的な立場を保持しようとしても、企業体である限りは不利益な情報を報道できない場合があります。さらにマスメディアの発達によって政治社会に印象が実体に先行する場合が生まれ、政治的能力と無関係な基準で選挙で選出される政治状況も見られるようになっています。

 

圧力団体

圧力団体とは公共政策に影響力を及ぼすための私的な団体です。具体的には、業界団体、労働組合、消費者団体、宗教団体、環境保護団体、女性団体などです。

圧力はエリートに限定された手段であり、また一部の利益が過剰に政治に影響を与えるなどの逆機能を併せ持つことになります。

ローウィは『自由主義の終焉』においてアメリカ政治において圧力団体が野放しにされている状況を非難しており、これを利益集団自由主義と称した。アメリカでは圧力団体は議員、官僚との密接な関係を作り上げ、この関係は「鉄の三角形」とも呼ばれ、業界団体、族議員、官僚が特定の権益のために政治に影響を及ぼす強い政策ネットワークが構築されていました。

 

統治機構

立法府

立法府は政治制度において特に重要な立法権を掌握している政治機関であり、基本的には法案を審議して制定することができる権限を持ちます。また憲法改定の提案、条約の批准などの権限を持つ場合もあり、他の政府機関に対して優越的な地位にあります。

しかしながら現実の政治ではしばしば政治問題の専門化と複雑化に対する議会の無能力、緊急的な政治問題に対する立法過程の遅滞などの問題が指摘されています。

 

行政府

行政府は立法と司法の機能以外の国家作用を行う政治機関です。

行政府の長である大統領または総理大臣は国家の代表として一般的に認識されます。

また非常に総合的な権限を持っており、外交権、統帥権、任命権、立法権など、国家の最高指導者としての政治的に重要な権限を含んでいます。

 

司法府

司法府は立法により制定された法律を適用して裁定する政治機関であり、裁判所から構成されます。

法には法体系の基礎となる憲法を最高位として、犯罪行為を取り締まる刑法、賠償や商行為などについて定めている民法、政府機関の規則や命令を含む行政法、国家間で合意された条約などを含む国際法などがあります。

裁判官には「法の下の平等」という思想に基づいて常に公平であることが要求されているからであり、政治的な立場に偏りがあることは望ましくないとされます。

 

官僚、警察 

 

公共政策

近代社会は複雑化が進んでいるために非常に多面的でありますが、近現代の政治機構はほぼ全ての領域に於いて政策機能を発達させており、何らかの影響力を行使することができます。

 

安全保障

安全保障は自らの価値を何らかの手段により脅威から守ることです。安全保障でまず問題となるのは国家の存続と独立、国民の生命、財産、つまり国防です。

集団安全保障は参加国が武力の不行使をお互いに約束し、もしそれを破る参加国がいれば他の参加国がそれに対して制裁を加えることで秩序を回復するものでした。

近年は安全保障の概念は広がりを見せており、エネルギー、食糧、人権などが安全保障の対象となり、経済的手段や外交的手段が安全保障において重要視されるようになっています。

 

経済産業

政治にとって経済は規制を最小限にして自由な取引を促進すべきものという資本主義の発想と、ある程度の管理に置いて必要な公共財を提供するという社会主義の発想と、二種類の在り方があります。

事実的な意味で経済が政治とどのように関わっているのかには四つの主要な考え方があります。新古典派経済学では経済は政治から独立した活動です。経済が政治を規定するものであると考える学説にマルクス主義がありますが、反対にケインズ主義では市場経済は政治的な統制を強調する。加えて政治経済学では経済と政治の相互作用の中で政策が形成されると捉えます。

 

社会福祉

国家が国民の生活水準を保証するための近代的な社会保障制度。

所得を喪失した場合に現金給付を受ける所得保障、医療サービスの機会を確保する医療保障、高齢者や母子家庭、障害者等に対する一定のサービス提供を保障する社会福祉サービスの三種類に福祉政策の機能は分類されます。

 

本題

では、どうやってロボットに政治と関わらせるか?

  

もしロボットに政治を任せるとしたら、君主政治か民主政治か問われると民主政治のほうがやりやすいと思います。仮にロボットだけの社会で国王(女王)といった君主制を執ろうとしてもロボットの女王様や社会は機能しないと思われます。どちらかといえば共和制(アメリカでいう共和党)みないな感じでしょうか?

初期の段階では人間が政治の中心を担い、死んだ人間の魂を移植した不老不死のサイボーグが社会のエリート層になって政治を担うようになっていくと思います。

もし人間程の心や思考力を持たないロボットしかいない国があったとすれば、彼らは動力維持装置と電気か燃料が尽きない限り、政府や行政、役所の世話も不要で財政から見ても「お金」というものを一切使わずに済みます。

また基本的に犯罪をしないようにプログラムされているのでロボットしかいない国では警察の存在も縮小し消滅するか、犯罪を犯したロボットはプログラム書き換えか制限をかけられ、体罰や残虐刑を受ける事自体ありえなくなります。

 

 

 

美少女ロボット計画2017 第14章 美少女ロボットと考える教育

美少女ロボット計画

美少女ロボットには、小学校から高校で学ぶ全科目を教育させます。

国語、外国語、数学(算数)、理科、(物理、科学、その他)、社会(歴史、地理、政治、宗教・哲学・倫理学)、家庭科、工学、性教育の知識、あと必要に応じて音楽や美術と体育を学んで貰います。

以上の知識と思考方法は美少女ロボットの製造時にプリインストールされ、追加や修正は後に出来るようにします。

 

これら全てを習得すれば先生(学校の教師)になれる程の才能を発揮しますが、人間相手では人間の生徒からナメられたりして授業崩壊または学級崩壊になる恐れがあるので、先生という職業はそれなりの人間性と敏腕さを併せ持った人間の先生が指導するべきです。

 

仮に美少女ロボットを家庭教師にすれば、向いているほうだと思います。それでも学校の授業でも同じ事で、子供が自発的に勉強する意欲を持たせない事には勉強は身に付きません。

 

次に、以上の学校で習う授業のような教育だけでなく、人付き合いやコミュニケーション、礼儀作法や躾なども学んで貰う必要もあるでしょう。

躾については、人間に対するそれとは異なる部分もあると考えられます。

いつか、人間の親よりも育児教育に優れたロボットが現れた暁には、人間の親が子供に間違った教育をした事を悔み改めて貰う時が来るのかもしれません。

 

政治や宗教や価値観の主義・主張や小学校から高校の授業で一切学べない知識は大学で学ぶことになりますね。

 

哲学の章でも登場したイマヌエル・カントは、なぜ教育が欠けてはならないのかという問題について、「人は教育によって人間になる」と述べ、人間らしく生きるために教育が必要であると論じました。学びの意欲を喪失した若者が多いといわれる現代に於いて、なぜ教育が必要かが改めて問われる状況にあります。

 

 

美少女ロボット計画2017 第13章 美少女ロボットと家庭問題の解決策

美少女ロボット計画

多くの既婚者にとって、美少女ロボットは興味のない代物かもしれませんが、両親が一人っ子でも良いと考えるのであれば買ってもいいと思います。

両親から最初に生まれた息子や娘、そして他人にとって弟や妹なんて社会の秩序を乱す害悪そのものでしかないからです。これは第15章でも少し触れていきますが、共産主義を掲げて既婚者に弟や妹を産ませない・児童虐待を抑圧する目論見です。

子供の教育上、美少女ロボットは子育てをする両親よりも優れた存在です。

息子(長兄・長男)に美少女ロボットを買い与える事ができれば、妹なんか要りません!

だいたい、上の子(兄や姉)がいる奴に限って他人にちょっかいを出す嫌な奴が多いんです。(中には弟のほうが優しい性格で仲の良かった友達もいましたが)

既に子供がいる既婚者へ・これから子供を産もうと考えている既婚者へ

『弟や妹を産むことは憎しみを増やす』という事です!

美少女ロボット計画2017 第12章 ロボットは生死の概念を変える

美少女ロボット計画

もし人間の人智を超えたロボットが世の中に現れたのならば、壊されても修理可能な上、酸素のない宇宙空間や極寒の南極や果てしない猛暑の砂漠や果てしなく長い洞窟、エベレストやマリアナ海溝でも平気で飛び込むことが可能で人類の如何なる天才をも上回る知能と不老長寿であるとすれば、死や地球の終末論といった概念を打ち破る事になります。

あとは神様の教えを学ぶだけで神を超えた存在になるのです。

今まで人間をはじめ命のある生き物全ては此の世に生を持って産まれたら、いつかは年老いて死ぬのが当たり前とされてきました。

然し近年では人間を段階的にサイボーグ化して、ロボットに自分の脳から精神転送(魂の移植)して不老長寿に意識と心を持たせる技術が現実味を帯びてきた時代になってきました。

 

応用例

あなた自身の肉体が死ぬ時、そてまで自分の嫁(伴侶)として扱ってきた美少女ロボットに精神転送するか、あるいは新しい完成前の美少女ロボットに精神転送するかの二択があります。

これで自分の死後の世界も楽しくなりそうだと思います。

 

5月6日

カラパイアでイタリアの脳神経外科医師のセルジオ・カナベーロ(Sergio Canavero)博士は今年12月にも、遅くとも3年以内に頭部の移植手術計画の準備に着手しようとしています。

カナベーロ博士によれば、Texas-PEGという液体を用いて脊柱を完全に切断した動物の動きを回復させる事に成功しており、彼は人体冷蔵保存で有名なアルコー延命財団の患者を蘇らせたいと願っているそうです。

彼は 「仮にこれに成功したとすれば、人類の世界観が一変することは間違いない。「宗教は永遠に一掃されるでしょう」「宗教はもはや必要なくなります。死を恐れる必要がなくなるからです」

人間が生死の概念を変える事が出来たならば、サイボーグやロボットは神を超える存在になるからです。

また彼は「意識は死から蘇ることができると分かれば、人はもはやキリスト教も、ユダヤ教も、イスラム教も必要としなくなる。そして人生の意味は?との問いも余計なものになるだろう」とカナベーロ博士は話しています。

 

また、ロシアのドミトリー・イッコーフ(Дмитрий Ицков)博士は2013年5月20日に「人間の魂をロボットに移植して、ロボットの体内で生きる計画」を発表しています。

彼は31歳の時、「人は死を恐れる。老化を恐れる。人間の意識をロボットに移植することで永遠の命すら手にいれられる」と言いました。最終的には外科的手術を要することなく、人間の脳の情報を体から取り出し、まるで幽体離脱した魂が乗り移るかのごとく、意識だけがロボットにするっとアップロードできる技術開発も検討中だと語っていました。

「私達の身体能力の限界や病気、そして死から人類を救うことはできません。私達は老化や死さえも排除し、そして今この身体から制限されている物理的、精神的な能力の根本的な限界に打ち勝つ必要があり、それは可能だと考えています。2045年になる前に、機能性において現実の体を超えるだけでなく、完璧な姿をし、人体に負けないぐらいの魅力を備えた人工的な体が造られるでしょう」

「新しい人間は、非常に広い範囲に及ぶ数々の能力を授かり、高温や圧力、そして放射線や無酸素といった、過酷な外部環境にも容易に耐えるでしょう」

「私達が提案するのは、単に人工的な体を創るための機械論的なプロジェクトだけではなく、全体的なシステム、つまり人間の知的、倫理的、物理的、精神的、心的な発展のためのテクノロジーや価値、そして観点なんです」

ドミトリーは先ず外科的な方法で人間の意識をロボットに移植することを計画しています。その後、手術せずに意識をアップロードして、人々が脱け殻同然のヒトの肉体を捨て去り、ロボットの体内で生き続けるという計画です。 

 

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以上リンクの9、10より引用

精神転送

私たちの記憶を コンピューターに移し替えることに可能性はあるものの、意識(精神)を移し替えることができるかどうかは未解決の問題です。ロボット工学を使った身体に精神をアップロードすることは、人工知能の目標の一つとされることもある。此の場合、脳が物理的にロボットの身体に移植されるのではなく、意識を記録して、それを新たなロボットの頭脳に転送する。今のところ精神の状態を複製できるほど精密に記録する技術は無く、またコンピュータ上で精神をシミュレートするのにどれだけの計算能力と記憶容量を必要とするかも分かっていません。

 

惑星の不死

太陽は何億年もすれば寿命が来て爆死します。どんなに我々の技術が高度になっても、しかしながらどんな対抗策を練ったとしても、宇宙の熱的死を避けることはできないであろう。  

太陽系が人類の住めない灼滅地獄と化しても、ロボットが太陽系を離れ、他の銀河の惑星で暮らせばいいだけの話ですが、全宇宙空間全てが熱的死を遂げた場合はなす術がありません。

 

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HUMAI社の創業者ジョシュ・ボカネグラ氏によれば、人間の復活は今後30年以内に可能になるといいます。


脳を冷凍し人格チップに接続

その詳細は具体的には明らかにされていないが、どうやら脳を冷凍し、”人格”チップに接続する技術が中核にあるようだ。同社の説明によれば、人工知能ナノテクノロジーを利用し、「会話の癖、行動パターン、思考プロセス、身体機能の完全なデータを保存」する。

 このデータは、”マルチセンサーテクノロジー”にコード化され、死者の脳とともに人工の身体に内蔵される。さらに脳が十分に成長すれば、クローンナノテクノロジーでこれを復元し、蘇らせるのだという。

このプロセスにかかる費用や脳を入手する方法については不明である。しかし、ボカネグラ氏は、「死後、コールドスリープ技術で脳を冷凍」すると語っている。

技術が完成した暁には、脳の義体(漫画・アニメ『攻殻機動隊』シリーズ中で使用される、サイボーグ化した体を意味する造語)への移植が開始されるそうだ。また、義体の各機能は脳波によって制御するという。これは最先端の義肢で採用されているものと同じ技術である。

 

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確かに、これらはコピー可能で、安全な場所に貯蔵できるかもしれない。850億個の神経細胞からなる脳のマッピングは難しそうですが、インターネットのそれと全く別物というわけでもないです。

フラメルは脳のアップロード計画に全財産を投じ、数年後に彼の望みも夢ではないと感じるようになった…が、そこには重大な罠がありました。物理的な脳内の情報を移転するには、脳を破壊しなければならないのだ。だが、すでに85歳になっていた彼は、幾度かマウスで実験を行った後、結局実行することを決心しました。

フラメルの物語は単なる寓話だが、脳のアップロード、すなわち”脳全体のエミュレーション”はここ数年で大きな脚光を浴びている分野です。「理論的には脳のコンピューターへのコピーは可能であり、死んだ後の命の形をもたらしてくれます」と、昨年スティーブン・ホーキングは述べています。

此の分野に於いて、現在最も有名な取り組みは、ロシアの大富豪が資金を提供する2045イニシアティブと呼ばれるもので、「個人の人格を高度な非生物キャリアに転送し、不死も視野にいれた延命を図る」ことを目的としています。

自意識がコピーを生き延びることができるか否か見解の一致を見ないという事実は、意識と自己認識についての一般的な理解が、極めて薄弱で限られたものであることを思い起こさせる。科学者はそれを定義することができず、哲学者もまた手こずっています。

私たちが意識と呼ぶものは、「その環境的文脈の中における一個の動物の達成」なのだそうです。その意味では、重大かつ意識ある不死には、電気的な脳だけでなく、それに従う精巧なロボットの身体を持ち、周囲の出来事を感知するしっかりとした神経を備えることが必要でしょう。

多分、とってもっと上手いやり方は、脳をコピーすることではなく、自己を新しい物理的な受け入れ先に移し替えることだと思う。新しい貝殻を探すヤドカリのように、不死は自己をコピーすることではなく、現在の生物学的な家からゆっくりと離れ、もっと長持ちする場所へ引っ越すそのプロセスを作ることなのかもしれない。これはイェール大学のスティーブン・ノヴェラが指摘したことです。

 

美少女ロボット計画2017 第11章 宗教と科学、そして科学宗教へ

美少女ロボット計画

宗教と科学の関係に関する問いかけは、17世紀より重要視されることが多くなってきました。両者の関係について述べられる一般的な論調は、凡そ次の3つがあります。

 

1、検証可能な事実を対象とする科学と、信仰の理由をあえて求めたりはしない宗教とでは、相容れない。


2、人間の欲求に対して別の立場から答えを出しており、本質的には相補的なものである。


3、仲睦まじい関係である。

 

然し実際には、上記の3つのように単純化された視点だけでは描ききれないほど、宗教と科学は複雑多岐、且つ実り豊かな関係です。例えば、キリスト教徒すべてが科学的な探求をしていなかったというわけではありません。また、著名な科学者が熱心なキリスト教徒だと公言することも多かったのです。

 

宗教と科学について考察する場合、「宗教」と「科学」の定義は厳密にしないほうが無難だと言われています。宗教と科学の現代的な定義が、時代を超えて正当性を持つと考えていては、実態とかけ離れ、作為的になってしまうだけです。

ロボットの時代での宗教は、そこから何かを学びとるだけの資料に過ぎません。

つまり、心をロボットのコンピューターにアップロードし、人体を機械の体に置き換えることで、人類をより賢く、優れた存在とすることを目的としています。

 

キリスト教と近代科学

17世紀に生きる人々にとって、自然についての「知」が、神の御業や計画についての「知」に連なるという前提は、自明のことでした。即ち、17世紀に誕生した近代科学は、キリスト教と密接な関係にあったのです。リン・ホワイトは「近代的な西欧科学はキリスト教の母体のなかで鋳造された」と表現しています。

例えば、キリスト教会によって宗教裁判にかけられたガリレオ・ガリレイは、神やキリスト教を否定して科学を唱えたのではない。寧ろその反対であり、ガリレイは、「神は『聖書』の尊いお言葉の中だけではなく、それ以上に、自然の諸効果の中に、すぐれてそのお姿を現わし給うのであります」と語っていました。

 

アイザック・ニュートンゴットフリート・ライプニッツは、神と自然の関係について激しく論争していました。「神は常にどこにおいても自然に働きかけている」と考えるニュートンは、「全知・全能なる神の所産である自然は、神の介入による手直しを一切必要としない」と考えるライプニッツから、「神の御業に関して奇妙な見解を示している」と非難されました。

ニュートンを擁護するブレーズ・パスカルは、ライプニッツの考えを踏襲したルネ・デカルトに対して、「デカルトを赦すことはできない。彼はその哲学体系のなかで、できれば神なしですませたいと考えたはずだ」と非難しました。

 

1687年にニュートンが発表した著作名は『自然哲学の数学的諸原理』なのであって、『自然科学の数学的諸原理』ではなかった。17世紀において、現在で言うところの「科学的な探求」を行っていた人は、自身のことを自然哲学者と呼んでいたのです。さらに、ニュートンが「自然哲学の根幹というのは、神の属性や神と自然界の関係を探求することなのだ」とはっきりと述べている通り、そもそも神のことを知り神と自然の関係を知るために自然哲学をしていたのでした。そのニュートンに「あなたは"宗教"と"科学"にどのように折り合いをつけたのですか」と問うことは本末転倒でした。

リン・ホワイトの言うように、近代西欧科学はキリスト教を母体として生まれたものなのでした。

 

科学主義

科学万能主義や科学教と呼ばれたり、思い込みの強さ・教条主義的・狂信的であることをはっきり表すために科学原理主義、科学崇拝などと呼ばれることもあります。

 

フリードリッヒ・ハイエクカール・ポパーなどが、多くの科学者が根底に持つと彼らが考えた態度を指すために用いた。彼らは次のような二つの異なる批判的な意味でそれを用いる傾向があります。

 

1、科学を当てはめるべきではないような文脈において科学的な権威を用いていること、を明示するため。

 

2、自然科学の手法、自然科学で認められた範疇や概念が、哲学など他の探求分野でも唯一の適切な要素であるという信念(思い込み)。

 

グレゴリー・ピーターソンは現代の学者がどのような意味で科学主義という言葉に言及しているのかを概説し、二つの大きな用法を特定しました。

 

1、あたかも、科学は全ての現実と知識を記述できる、とでもするような見方、あるいはあたかも現実の性質に関する知識を得るための唯一の妥当な方法であるかのように見なす見方、を批判する用法。


2、ある一つの科学分野の理論や方法が、他の異なる分野(それが科学分野であれ科学以外の分野であれ)に不適切に用いられていることを指摘する用法。

 

第二の用法は、「人間の価値」というのは、伝統的に倫理学の領域であるのですが、その「人間の価値」を測る唯一あるいは主要な源として科学を見なそうという試み、また(伝統的に「意味」や「目的」というのは、宗教あるいは(哲学的)世界観の領域であるのだが)その「意味」や「目的」を測るために科学を用いようとする様々な試みを指すために使用されます。

『科学と宗教の百科事典』の著者マイケル・ステンマルクによると、科学主義と呼ばれる立場は、多くの形態と様々な程度を持っており一様ではありませんが、"科学の(中でも自然科学の)境界が、以前は科学の範疇だと考えられていなかった問題にまで拡大できる、または拡大されるべきだ"、としているところは共通している、とのことです。最も極端な形の科学主義は、全ての人類の問題と、人類の試みの全ての側面への対処と解決が、科学"だけ"でなしうるとする信仰である。このような観念は「進歩の神話」とも呼ばれている。ステンマルクは科学主義の同義語として、scientific expansionism「科学拡張主義」という語を提案しました。エルンスト・シューマッハはこのタイプの科学主義というのは、人間の価値についての問いかけの有効性をすっかり否定してしまうような、不毛な世界観だと批判しました。

 

定義

 

1、科学者によって示される典型的なスタイル、仮定、技術あるいは他の特質の採用。


2、自然科学者が持つと考えられている典型的な方法や態度。


3、哲学、社会科学、人間性など他の分野への自然科学の有用性を過大に信用すること。

4、社会科学が自然科学で採用されている科学的手法のいくぶん厳しい解釈として保たれなければならないという主張。


5、社会科学のいくつか、あるいは全て(例えば経済学、社会学)が、自然科学で用いられるいくらかでも厳格な科学的手法を保っていないという理由によって、科学ではない、とする信念(思い込み)


6、科学的、または疑似科学的な用語の採用。


7、ドグマ(教義)の一種。"科学が真実へ近づく絶対普遍で唯一正当化される方法だ" とする教義。原理主義者と同じ精神構造。

 

美少女ロボット計画2017 第11章 イスラム教・イスラム社会と美少女ロボットの付合い方

美少女ロボット計画

イスラム教(以下イスラーム)は他の宗教よりも戒律に厳しく禁欲主義的で、クルアーンという聖典の他、ハディースシャリーアイスラム法)よって神の教えだけでなく、イスラム教徒(ムスリムと呼ばれる)ムスリムの実生活上の宗教や日常に関する様々な事柄を規定しており、その範囲は個人の信条や日常生活のみならず、政治のあり方にまで及んでいます。

ムスリムは少なくとも建前の上ではクルアーンシャリーアの定めるところにより、日常生活においてイスラームの教えにとって望ましいとされる行為を課され、イスラームの教えにのっとった規制を遵守することになっています。教義の根幹として掲げられる五行はその代表的なものでありますが、これらは社会に公正を実現し、ムスリム同士が相互に扶助し、生活において品行を保ち、欲望を抑制して、イスラームの教えにのっとってあるべき社会の秩序を実現させようとするものです。

 

さらにアルカイダイスラム国、タリバンといったイスラム過激派という世界でも類を見ない厄介者を抱える宗教でもあります。

彼らの行いに対し、神(アッラーフ)が「それはダメだ」「罪の無い人を殺してはいけない」と言われたら彼らは本当に懺悔するのだろうか?無論、彼らは地獄に落ちるだろう。

 

預言者ムハンマドは天使ジブリールよりアラビア語による神の言葉を聞き、アッラーの他に神なしの信条のもと、聖地メッカのカアバ神殿の多神だった複数の偶像を破壊して、全知全能唯一絶対である、すべてを超越するアッラーフだけを残してアッラーフを唯一絶対の神としました。

 

とくにイスラーム教国では同性愛やイスラームの教えに背く行為を固く禁じているうえ、エロが厳しく制限されているし、サウジアラビアやイランでは女性が家族以外に肌を見せてはいけないという厳格な制限の下、美少女ロボットは顔を出す事が許されるのがやっとかどうかといった所です。

 

イスラームの六信五行

六信

神(アッラー
天使(マラーイカ
啓典(クトゥブ)
使徒(ルスル)
来世(アーヒラ)
定命(カダル)

 

五信

信仰告白シャハーダ
礼拝(サラー)
喜捨(ザカート)
断食(サウム)
巡礼(ハッジ)

 

シャリーア

シャリーアは、コーランと預言者ムハンマドの言行(スンナあるいはスンニ)を法源とする法律。1000年以上の運用実績がある。ローマ法を起源としないイスラム世界独自のものです。シャリーアクルアーンと預言者ムハンマドの言行を法源とし、イスラム法学者が法解釈を行う権限を持ち、カリフが独断で法解釈をすることはできないとされる。預言者ムハンマドの言行録はハディースとよばれ預言者の言行に虚偽が混ざらぬように、情報源(出典)が必ず明記されます。

 

シャリーア民法、刑法、訴訟法、行政法、支配者論、国家論、国際法(スィヤル)、戦争法にまでおよぶ幅広いものです。シャリーアのうち主にイスラム教の信仰に関わる部分をイバーダート(儀礼的規範)、世俗的生活に関わる部分をムアーマラート(法的規範)と分類します。イバーダートは神と人間の関係を規定した垂直的な規範、ムアーマラートは社会における人間同士の関係を規定した水平的な規範と位置づけられます。 また、イスラム共同体(ウンマ)は、シャリーアの理念の地上的表現としての意味を持つとされます。

シャリーア六法全書国際法を合わせたような性格を持つようになったのは、預言者ムハンマド自身が軍の指揮官であり国家元首であったことに由来します。

 

イスラム教と科学

主要なものとしては進化論の否定であり、現在でも多くのイスラーム諸国で進化論の主張は禁止されています。

クルアーンの記述を科学的に正しいものだとする主張なされ、これも批判の対象となっています。クルアーンに限らず、イスラームの世界観そのものを科学に結びつける試みもなされています。

無論すべてのムスリムが進化論を否定していたり、クルアーンを一字一句信奉しているわけではないものの、現在のところイスラーム諸国では保守的な宗教理解が科学の発展を阻害している側面があります。

それ故に、とりわけ美少女ロボットを始めとした人型ロボットはイスラム社会に容易に受け入れられるものではないと思います。

 

クルアーンには、人間や動物の起源として、神による創造説が主張されています。現在もこれに基づき、イスラム圏の学校教育では、進化論を支持する教育・言論は禁じられていることが多いです。進化論を否定するムスリムも存在しています。啓典を絶対視する信仰を理由とした反進化論は、米国の原理主義キリスト教徒においてもみられます。(創造科学、インテリジェント・デザイン

 

結論

美少女ロボットはサウジアラビアやイランで『顔だけ』は出す事が許されるのか?

ロボットだから現実の女と接する(に対する)それとは違う解釈がなされるのか?

 

美少女ロボット、サイボーグ化した人間の頭脳(魂)を移植された美少女ロボットはアッラーフムハンマドを超える存在になります。

あとはロボットに神の言葉を教えるだけで、それまでのイスラーム社会の価値観はいとも簡単に変化します。そう、仏教如来(ほとけ様)や菩薩のように清らかな心を持つのです。これからはロボットが神様になる時代で、アッラーフに匹敵するロボットは世界を覆い尽くすように溢れかえります。

これで一神教は完全否定され、偶像崇拝の禁止も時代遅れなものになります。

ただ、アッラーフムハンマド、そしてイスラームを始めとした宗教の教えを学ぶ事は決して無駄なことではないのです。故に決してイスラームアッラーフを蔑ろにしている訳ではありません。

美少女ロボット計画2017 第11章 宗教から学ぶ美少女ロボット計画@キリスト教編②

美少女ロボット計画

キリスト教ページはキリスト教知識の寄せ集めで23000字近く書いたにも関わらず、キリスト教の体系的な教えが書かれていないので本稿に書きます。

 

心から遜る事(謙遜)

自分には何も誇れるものが無いと認める事です。

自分が罪で心が汚れていると自覚している者こそ神に祝福されるとされます。

多くの日本人が考える遠慮や謙虚とは違って、心が砕かれ自分の罪を嘆き悲しみ神に委ねることがキリスト教信仰の第一歩です。

 

疑わず心から神を信じる事

心が騒ぐ時には疑いがあります。仏教でいう煩悩の事です。

考え方・行動・態度が自己中心的になったとしても、神はあなたを愛しているのだから、あなたが必要とされる物は全て与えられるとさえ言われています。

 

罪は心で犯される

罪は単なる悪い行いによるものでないと教えています。

罪の始まりは心にあって、心で悪を思い巡らすだけで既に罪だといいます。

 

見せかけの善い繕いだけではダメ

見せかけだけの偽善者で、心は真っ黒な悪に満ちた偽善者を揶揄します。

名誉のために善行を行うのではなく、寧ろ誰も見えない所で善い行いをするならば神はあなたを祝福します。

 

神の無償の愛

神は人間の罪を憎み悲しんでおられます。人間が罪から悔い改める事を切実に願っておられます。善人にも悪人にも太陽を昇らせ恵みの雨を降らすのです。

 

神に倣う者になりなさい

神や聖人は罪や悪を憎み悲しまれております。そのような慈悲深い方・聖なる方に習いなさい。神が完全であるように、聖人であるように、我々人間にも聖なる者になりなさいと戒めています。

聖書はイエス・キリストの生き方、考え方、態度、全てから学び、従順・純真・誠実・愛を真似るべきだと勧めています。

 

神の言葉を実践しなさい

"「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ7・24-27)"

 

聖書を学ぶ7つの目的

キリスト教やその他の宗教を信じるか信じない無宗教だかは別として、7項目を挙げていきます。

 

1、自分と美少女ロボットの教養のために

聖書は一言でいえば歴史書です。人類の歴史を初めとして古代史はもちろん西洋史が含まれています。旧約聖書ではメソポタミア文明エジプト文明を背景としています。此の歴史の中で壮大なスケールで人間の苦楽が書かれています。

また、旧約聖書にはイスラエルの人々の生活の知恵、格言、人生観が書かれています。読む人の教養や視野を広げてくれるものです。

一方、新約聖書は西洋史、特にギリシャ・ローマ文化を背景にして書かれています。

イエス・キリストが生まれた時代の政治情勢や世情などがイエス・キリストの教えと共に書かれています。新約聖書にはキリストの人生の格言ともされる名言がたくさん書かれています。

 

2、グローバル国際化のために

自分の文化宗教はもちろん他国の宗教文化を理解することは必要不可欠です。聖書を読むことは、グローバルな国際人になるためには西洋文化・歴史を理解するための大切です。

 

3、人生に於いて成功を掴むために

欧米の哲学書は聖書に基づいて書かれたものが多いです。

「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい(マタイ7章12節)」

「他者に対する自己の行動を変えることにより、他者の行動を変えることができる」という考えが柱に多くの著書を書いたのです。つまり、聖書はあなたを人生の成功へと導く道しるべになるでしょう。

 

4、健全な自己イメージを得るために

あなたは自分自身についてどれくらい知っているでしょうか。自分の性格、価値観は?自分に対してどのようなイメージをもっていますか?自分の自己評価が低い人は、特に聖書を読むべきだそうです。聖書は自分がどんな人間かを教えてくれます。自分について客観的な真実を聖書は語ってくれます。

そして自己嫌悪的な感情も徐々になくなっていきます。

 

5、人間関係、人間とロボットの関係を良くするために

人間関係はいつの時代でも(いじめもあるし)、どんな社会に生きていても難しいものです。つらい経験をして学ぶことも必要です。聖書はまさにその人間関係のための教科書です。聖書は人間関係の全ての観点から見ているので、読者はありと凡ゆる場面で聖書の言葉を思い出す筈です。聖書は人間関係を健全にするために貴方に素晴らしい知恵を与えてくれます。

 

6、賢く生きるための知恵を得るために

悪知恵という言葉があるように、知恵にも色々あります。一般的には知恵とは世の中をうまく渡っていく要領を指しているものが多いですが、聖書が教える知恵は違います。他の人の権利や気持ちを尊重しながらも、自分が主張すべき所はきちんと言えるような知恵です。自らをトラブルに招く悪を避け正しいことをしていくための神の知恵を指しています。神の知恵とは人間の知恵とはかけ離れています。神の知恵によって人間やサイボーグ、ロボットは賢く生きていくことが出来ます。

 

7、迷路(煩悩)に迷わないために

人生に迷いは付き物です。迷わない人生などありません。しかし、迷路に入ってしまう人、入らない人には何らかの差があるかもしれません。。聖書がなくても確かに立派に生きている人はいますが、そこには並々ならぬ努力と精進がある筈です。

然し聖書は、そんな遠回りなことをすることなしに、人生の多くの教訓を教えてくれます。

 

キリスト教と科学

ただ現代に於いても創造論と進化論や、クローン技術、脳科学、同性愛等の研究分野においてプロテスタントの一部に根強い聖書主義の立場から、大きな反対運動が起こっており、これが科学の発展を阻害していると見ることもできる。実際に巨大な政治力と支持基盤を背景に、アメリカ合衆国の一部の州ではこれらの研究そのものを禁止する、もしくは阻害する法案や運動が存在し、裁判に発展すること(進化論裁判)も稀ではありません。これはキリスト教に関わらず、全ての宗教や思想、文化において起こりえる事です。

社会的地位を向上させようともがいている段階の科学関係者(科学者、科学史家ら)は、世間の人々に対して、"カトリック教会に代表される旧弊因習に、科学者たちが立ち向かって近代科学を発展させてきた"という図式で、物事を説明したがる傾向がありました。そして、そのような図式を描くためには、大抵、迫害を恐れて自説を公表しなかったコペルニクスや、ガリレオ・ガリレイの事例を、特定の視点で取り上げ、強調した。結果として、"キリスト教カトリック)は科学に対してひたすら抑圧的であった"といったような単純化された説明が(科学関係者の文章を中心として)まことしやかに流布することになりました。

近代になって、過去の行政文書や科学者の私信や草稿等の原文の緻密で真摯な学問的研究が進むにつれ、キリスト教と自然哲学や科学の関係は、そのような単純なものではなかったことが知られるようになってきていきました。

実用的かどうかはいったん度外視して「真理」自体を情熱的に追求するのがヨーロッパ近代科学の特徴であり、他地域の科学から大きく抜きん出た要因でもあるとし、それはキリスト教で培われた一神教神学への情熱がそのまま科学へ転用されたのではないかという指摘もあります。

科学者達の多くは決して非キリスト教徒ではなく、むしろ熱心な信徒であり「神の御業」を追求したものであったのも事実です。

 

 

美少女ロボット計画2017 第11章 宗教から学ぶ美少女ロボット計画@キリスト教編

美少女ロボット計画

美少女ゲームやアニメ作品でもキリスト教の世界観に準じた設定のキャラクターがいるからには、キリスト教の解説は欠かせません。

キリスト教アブラハムの宗教のひとつで、キリスト教徒のことはクリスチャンと呼ばれ、教派は主にカトリックプロテスタント正教会があります。全教派(正教会非カルケドン派カトリック教会・聖公会プロテスタント・アナバプテスト)に共通する教えの源泉は聖書(旧約聖書新約聖書)です。

しかしながら、聖書以外に教えの源泉を認めるかどうかについては教派ごとに違いがあります。

カトリック正教会聖公会・非カルケドンは聖伝を認め、カトリック教会では聖書と聖伝が教えの共通の源泉であるとされ、聖伝は「聖書と同じ謙遜と敬意をもって尊敬されるべきもの」とされます。

聖伝を認める教会の場合、教会の中にある全てのものが聖伝とされるのではない。カトリック教会では使徒たちに由来する聖伝と、神学・おきて・典礼・信心上の「諸伝承」が区別されます。

一方、プロテスタントには、聖伝(伝統・伝承)を認める者と認めない者とがいます。(プロテスタントは様々な教派の総称であり、内実は様々です)

 

三位一体の神

ニカイア・コンスタンティノポリス信条は(使徒信条も)、父、子、聖霊の順に、三位一体について言及しています。キリスト教に於いて、神は一つであり、かつ父・子・聖霊と呼ばれる三つの位格があるとされます。「父・子・聖霊」のうち、「子」が受肉(藉身)して、まことの神・まことの人(神人)となったのが、イエス・キリストであるとされます。

 

聖書

キリスト教聖典(聖書)には、ユダヤ教から受け継いだ旧約聖書と、キリスト教独自の聖典である新約聖書があります。「旧約」、「新約」という名称は、前者が神と人間との間に結ばれた旧来の契約であり、それに対して後者がキリストにより神と新たに結ばれた契約であると見做している事によります。

新約聖書では…

 

福音書:イエスの伝記。全部で4つあり、内容には重複が見られる。

マタイによる福音書

マルコによる福音書

ルカによる福音書

(以上の3つはイエス・キリストの生涯について書かれたもので重複する所が多い)

ヨハネによる福音書

『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』に次ぐ4つの福音書イエス・キリストの言行録)の一つで、ルターは本福音書パウロ書簡を極めて高く評価しており、その影響は現在のプロテスタント各派に及んでいます。

 

共観福音書と呼ばれる他の3つの福音書は、イエスの生涯について多く記され、重複記述が多く見られますが、『ヨハネによる福音書』は重複記述が少なく、イエスの言葉がより多く記述されています。

 

ヨハネによる福音書』は「共観福音書」と呼ばれる他の3つとは内容的に一線を画した内容となっています。この福音書が4つの中で最後に書かれたということに関して研究者たちの意見は一致しています。初代教会以来、伝統的にはこの『ヨハネによる福音書』の筆者は、カトリック教会・正教会等で伝承されてきた聖伝においては、文書中にみえる「イエスの愛しておられた弟子」即ち使徒ヨハネであると伝えられてきました。例えば紀元200年頃の神学者アレクサンドリアのクレメンス, リヨンのエイレナイオスなどがこの文書を使徒ヨハネに帰す。同じく伝統的見解として使徒ヨハネに帰されるヨハネの黙示録の著者に関しては3世紀のアレクサンドリアのディオニシオスや4世紀のエウセビオスによって疑義が提出されたのに対して、古代においては『ヨハネによる福音書』は使徒ヨハネに帰されるのが一般的でした。成立年代に関しては3世紀のヒッポリュトスなどがドミティアヌス治世下(81-96年)と証言する。 ただし、近代以降の高等批評をとなえる聖書研究家たちはこれらの考え方を支持しません。田川建三はこの書は作者ヨハネが自分のかなり特殊な宗教思想を展開した書物であり、イエスを知るための直接の資料にならないと考えました。成立時期については、最古の写本断片が120年頃のものとの鑑定から一世紀末という見解が多数です。

 

ヨハネはイエスの父なる神との関わりについて重点的に説明しています。ヨハネは他の3つの福音書よりも鮮明に神の子たるイエスの姿をうかびあがらせました。ヨハネの書くイエスの姿は父の愛する一人子であり、神の子そのものであった。また、キリストをあがない主として書く、あるいは神の霊である聖霊を助け主(ギリシア語:パラクレートス)として書く、キリスト教の特徴として愛を前面に押し出すなどの諸点によってキリスト教に大きな影響を与えることになりました。

 

 


パウロ書簡:精力的に布教をした弟子であるパウロが各地の教徒に向かって書いたとされる手紙。


公同書簡キリスト教徒一般に向けて信仰のあり方を説いたとされる書簡。


ヨハネの黙示録ユダヤ教でいう黙示文学に属する文書で、終末論についてかかれている。


これらの文書群は、1世紀から2世紀頃にかけて書かれ、4世紀中頃にほぼ現在の形に編纂されたと考えられています。

 

キリスト教哲学

西ヨーロッパ中世ではリベラル・アーツ(自由七科)を統括する学問として哲学は尊重されましたが、キリスト教の秩序のなかでは「哲学は神学の婢(はしため)」(ペトルス・ダミアニ)でした。

11世紀頃より西ヨーロッパではスコラ哲学が興隆し学問的方法論が整備されて、哲学はキリスト教の枠内であるにせよ発展しました。アラビア語から翻訳されてヨーロッパに紹介されたアリストテレス哲学をキリスト教神学に融合させたトマス・アクィナスの業績は有名です。既にイスラム世界で行われていたイスラム教学とアリストテレス哲学の整合性と融合に関する議論に多くその源を求められるとしても、彼が創り上げた壮大な神学大系は余人の追従を許していない。また、普遍概念は実在するのか(実念論)、名前だけなのか(唯名論)を争った普遍論争など、哲学史に残る重要な議論がこの時代に行われていました。

 

パウロ書簡、ローマの信徒への手紙

本書はパウロ本人によって書かれたものであるとみなされている七つの手紙の一つです。

本書の中心テーマはイエス・キリストへの信仰を通して得られる救いです。パウロアブラハムを引き合いに出してキリストによる神の恩寵を強調し,人が義(正しい)と決定させられるのは,信者の側の信仰と結び付いた,神の側のこの恩寵のみによることを力説している。また,ユダヤ人にも異邦人にも,誇ったり自分を他の人よりも高めたりする理由は何もないことに注目させています。

 

救いの保障

5章から8章にかけて、パウロは信じるものは救いの約束を受け、罪と律法のくびきから解放されると論じています。但し、律法や決まり事は自分の行いが悪であり、罪であることに気づかせてくれる、として善いものと見なしている反面、人間にできることは罪の自覚を得ることのみで救済には至らないと結論付けています。
パウロは信仰によって義とされ、信じるものはイエスとともにあり、罪から解放されるという。さらに信じるものは希望をもって喜ぶべきです。また、この約束はすべてのものに開かれているので、全ての人が罪によって神から離れたように、イエスの償いによっては全ての人の罪がゆるされるといわれています。

9章から11章にかけてはパウロは神が選んだイスラエルに対して忠実であられたことに触れ、同じように神は信じるものに忠実であられることを思い起こさせます。パウロは自身もイスラエルの一員であり(11:1)、かつてキリスト者を迫害していたため、イスラエルの民がみなこの真実に気付く事を望んでいる(9:1-5)。パウロは神がかつてイスラエルの民を選んだように、キリストに従うものを新しい民として選ぶといいます。

 

信じる者を変える福音

12章から15章前半では、パウロは福音がいかに人を変えるか、そして変えられた人はどのようにふるまうべきかを述べています。さらにユダヤ教の習慣を固守すると、そうでない人々の間の緊張関係についても述べています。

 

カトリックでの扱い

ルターは救いに必要なものは信仰のみであるとして、救いに於ける人間の行いも重視したカトリック教会を批判しましたが、カトリック教会では『ローマ書』2:5-11にははっきりと人間の行いの重要性も書かれているということを指摘してきました。

 

プロテスタントでの扱い

パウロ神学ともいうべきものが明白に打ち出されており、初期キリスト教思想の根底をつくるものとなりました。ルターは『ローマ書』を「新約聖書中もっとも重要な書簡であり、すべてのキリスト者によって精読されるべきもの」と激賞しています。「ローマ書のあゆみ」という言葉がありますが、それは『ローマ書』にあらわれる語句を追っていくことで人間個人の救いの道が現れるというものである。たとえば…

 

3:23 - 「すべてのものが罪を負い、神の栄光を失った」
6:23a - 「罪の結果は死である」
5;8 - 「しかし神はイエスをとおして永遠の命を与える」
10:9 - 「口でイエスを主であるといい、心で神がイエスを死から復活させたと信じるならあなたは救われる。」
10:13 - 「主の名を呼ぶものは誰でも救われる」

 

ローマ書はプロテスタントの歴史上、最も大きな意味を持った書となりました。

ルターは1515年から1516年にかけてローマ書講義を行ったが、そこからくみ上げた思想が1517年の「95ヶ条の論題」ににじみ出ることになり、宗教改革の口火を切ることにつながりました。1738年には『ローマ書』につけられたルターによる前文を読んでいたジョン・ウェスレーが「不思議と心が温かくなる」回心体験をし、メソジスト運動につながりました。

(ここから翌日)

 

パウロ書簡、コリント信徒への手紙

(中略)第四の部分、結びの部分となる15章と16章は死者の復活についてのパウロの考えが記され、最後の挨拶が述べられています。ともすれば聖人の集まりのようにみなされ、美化されがちな初代教会であっても現実には様々な問題や困難があり、パウロのようなエネルギッシュな人物であっても常に悩みや苦しみがあったことを如実に伝える書簡です。

長い書簡であり、内容も多岐に渡ることから、この書簡がいくつかの書簡の集合体ではないかと考える研究者がいますが、具体的な分割案として多くの研究者が合意できるものはないようです。

 

パウロ書簡、ガラテヤの信徒への手紙

19世紀以降、此の書簡がパウロ本人の手によるものであることを疑うものは少なく、もっともパウロらしい書簡とさえ言われています。

本書簡の中心テーマは異教徒の改宗に関わる問題です。これは本書簡がまだ殆どのキリスト教徒がユダヤ教の出身だったキリスト教の最初期に書かれた事を示し、パウロの存命中に書かれた事も示す。本書に描かれる教会共同体はあくまでごく小規模なものです。

 

『ガラテヤ書』は律法とキリスト教徒の関係について述べています。即ち当時のユダヤ教徒およびユダヤ教出身のキリスト教徒たちが持っていた律法の遵守なしに人間は義化されえないという立場に対する反論の書という性格があります。冒頭部分で、パウロは何故此の手紙が書かれることになったのかという次第について触れています。

第1章で、まずパウロは自らの使徒としての正統性を改めて主張する。第2章から第4章においては律法を重視する人々によって福音の精神が傷つけられていると主張される。第3章ではガラテヤの信徒に対し、イエスを中心とした信仰ないしイエスの信(後述)にしっかりとどまり、聖霊の実りを受けるよう求めています。第4章は其処まで扱った問題の纒めと祝福、5章と6章はキリスト者の自由について述べられています。

『ガラテヤ書』と『ローマ書』は共に「義化が道徳的な行いや儀式によって得られるのでなく、神の恵みによってのみ与えられることの何よりの証であり、イエスを信じるものだけが受けられる神からの贈り物であることを示すものである」(イーストン聖書辞典)といいます。

(ガラテヤ書は急ぎで書かれているような内容であるのに対し、ローマ書は計画的に書かれていたようである)

 

エスの信

『ガラテヤ書』2章16節から4章31節に於いて、パウロユダヤ人の伝統的宗教行為とキリスト教徒の信仰、即ち「律法の行いに拠る」義と「イエス・キリストへの信に拠る」(ディア・ピステオース・イエースゥ・クリストゥ)義を対立させて論じる(2:16)。ギリシア語「ピステオース(主格:ピスティス)・イエースゥ」は、文法上、イエスに対する信(目的的属格)と、イエスの持っていた信(所有的属格)の二つの解釈の可能性を持ちます。

伝統的に、西方キリスト教では(特にプロテスタントでは)この句を前者に解し、キリスト・イエスに対する信者の信が、信者を神と和解させ救済へ導くとするが、正教会には、この句を後者に解し、神人二性をもつイエスの人性に於いて、その生涯全体に現れている神への信が、全人類の救いの根拠であるとする解釈があります。後者の解釈に於いては、その完き人間性において完き信を体現するイエスに、信者は洗礼を経て恩寵のうちに神秘的に体合し(5:27、また4:19-20を参照)、義とされ、救済されると書かれてあります。

 

パウロ書簡、コロサイの信徒への手紙

『コリントの信徒への手紙一』などの他のパウロ書簡と同じように、『コロサイの信徒への手紙』(以下コロサイ書)も対象となった共同体の特定の状況に対する問い合わせにパウロが答えるために書かれています。その主要な問題は誤った教えに関するものです。東方由来の神秘思想や禁欲主義をキリスト教にとりこもうとする人々に対して警告しています。パウロキリスト教にとって必要なものは全てイエスの中にあると述べ、そのあがないの意義を強調する。「新月」と「安息日」(2:16)という表現もユダヤ教由来のものを固守しようとしていた人々がいたことを示唆しています。

 

内容

本書簡は神学的考察と実践的なすすめの二部構成になっています。1章から2章にかけての神学的考察の部分では、霊に於いて頭であるキリストの神性のうちにあって完全なものとなることを妨げているものたちへ警告を行っています。共同体の頭であるキリストのうちに一つでありさえすれば、それ以上のものは何も必要ないと著者はいう。実践的なすすめの部分では信仰生活においてすべきこと、なすべきでないことを解説します。さらに上にあるものを求め(3:1-4)、古い自分に死んで新しい自分を生きること(3:5-14)を示し、ユダヤ教徒でないキリスト教徒としての行き方を提示します。

 

パウロ書簡、テサロニケの信徒への手紙

テモテの報告からパウロはテサロニケの教会が良い状態にあることを喜びつつも、自分の教えが間違って捉えられていることにも気がついた。パウロはこの手紙によってそれらの誤りを正し、聖なるものになることを神が望んでいると重ねて強調しました。

書簡全体を通してパウロは当地のキリスト教徒たちを激励していて、パウロは彼らが信仰に生き、愛深い生活を送っていることを感謝し、彼らの疑問に答えていました。例えばキリスト以前の死者たちがキリストの再臨時に共によみがえることができるのかということであったり。キリストの再臨の時期については、その時期については確言しないものの、彼らの生存中に来るという前提にたって書いていました。

 

第2テサロニケの信徒への手紙では、本来の主題は誤った終末論に惑わされることなく、落ち着いて日常の労働に励むことの大切さを説くことにあったのですが、後にはそこから離れ、中世の終末論や反キリスト像の発展に大きく影響した文書であるとともに、共産主義と親和的なスローガン「働かざる者食うべからず」に結びつくこととなった文書でもあります。

そのテーマは、終末が訪れていると信じて浮き足立つテサロニケの信徒たちに対して、キリストの再臨に至る筋道を示すことで、それがまだ来ていないことを確認するとともに、(いつ来てもよいように備えつつも)落ち着いて日々の労働に励むことの大切さを諭すことにあります。

第一テサロニケ書との重複箇所も少なくないですが、独自性を発揮している「不法の者」に関する描写は、ヨハネの黙示録などとともに後代の反キリストのイメージの発展に影響を及ぼしました。

また、日々の労働の大切さを説いた言葉「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」(口語訳)はキリスト教の労働観に影響を及ぼしただけでなく、20世紀にはレーニンによる改変を経て、「働かざる者食うべからず」という労働を神聖視するスローガンとしてソ連などの共産主義諸国の憲法にも盛り込まれました。これが日本国憲法の勤労の義務に繋がったという説もあります。

 

第2テサロニケ書の第1章1節には、著者としてパウロ、および同行者のシルワノ、テモテの名がありますが、著者問題については、パウロが生前に執筆した真正書簡とする説、パウロの死後に別人が執筆した擬似書簡とする説のほか、パウロの生前にその意を受けて近しい人物が第一テサロニケ書の真意を敷衍したと見る「代筆説」なども考えられます。

以下に書くその内容は、冒頭の挨拶、終末に至る予定の提示、怠惰な生活への戒め、結語といったものですが、節単位で見た場合には、論者によってまとめ方に細かな違いがあります。

 

挨拶

神に感謝する・キリストの来臨と正しい裁き

不法の者についての警告

救いに選ばれた者の生き方

忠告を与えるにあたって、神の助けを祈る

怠惰な生活に対する警告・けじめのない生活を送る人々に対する叱責と忠告

結びの言葉

 

後述するように、第二テサロニケ書には第一テサロニケ書と類似するくだりが多く含まれ、内容的には3分の1ほどが重なるとも、3分の2ほどが第一書を敷衍しているとも言われています。まず、第1章5節から10節に独自の思想が含まれているとする者がおり、其処に含まれた応報の思想にはユダヤ教色が強いとも指摘されています。

次に、キリストの再臨に至るスケジュールを記した第2章1節から12節は第一テサロニケ書には直接重なり合う箇所を持たず、第二テサロニケ書の随所に散りばめられている第一書からの借用表現も、この箇所には見当たりません。この部分がこの書簡の核心とされることがしばしばあります。

 

第一・第二テサロニケ書の比較

 (1:2-3) あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起している。(1:3) 兄弟たちよ。わたしたちは、いつもあなたがたのことを神に感謝せずにはおられない。またそうするのが当然である。それは、あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがたひとりびとりの愛が、お互の間に増し加わっているからである。

 

 (2:12) 御国とその栄光とに召して下さった神のみこころにかなって歩くようにと、勧め、励まし、また、さとしたのである。 (1:5) これは、あなたがたを、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである。その神の国のために、あなたがたも苦しんでいるのである。

 

(3:13) そして、どうか、わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように。(1:7) それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。

 

(3:11-13) どうか、わたしたちの父なる神ご自身と、わたしたちの主イエスとが、あなたがたのところへ行く道を、わたしたちに開いて下さるように。どうか、主が、あなたがた相互の愛とすべての人に対する愛とを、わたしたちがあなたがたを愛する愛と同じように、増し加えて豊かにして下さるように。そして、どうか、わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように。 (2:16-17) どうか、わたしたちの主イエス・キリストご自身と、わたしたちを愛し、恵みをもって永遠の慰めと確かな望みとを賜わるわたしたちの父なる神とが、あなたがたの心を励まし、あなたがたを強めて、すべての良いわざを行い、正しい言葉を語る者として下さるように。

 

(2:9) 兄弟たちよ。あなたがたはわたしたちの労苦と努力とを記憶していることであろう。すなわち、あなたがたのだれにも負担をかけまいと思って、日夜はたらきながら、あなたがたに神の福音を宣べ伝えた。 (3:8) 人からパンをもらって食べることもしなかった。それどころか、あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力して働き続けた。

 

(5:23) どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。 (3:16) どうか、平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和を与えて下さるように。主があなたがた一同と共におられるように。

 

(5:28) わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。(3:18) どうか、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように。

 

終末観

第二テサロニケ書第2章1節から12節に示されているのは、そこに描かれた出来事が起こるまでは終末が訪れることはないとする考え方であります。その中の「背教」のくだりにはダニエル書、外典・偽典の第一エノク書、第四エズラ書などの関連を指摘されるなど、各種黙示文学からの影響が指摘されています。

 

パウロ書簡、テモテへの手紙

本書はテモテなる人物に対しての教会での儀式のやり方や教会の組織、共同体の責任者となる「監督」(Episcopi、司教の語源)や「奉仕者」(Diaconi、助祭の語源)に関するすすめが中心となっています。それだけでなく、誤りのない正しい信仰を保つことへの励ましと偽教師への警告も記されています。

パウロはテモテに対し、冬になる前にマルコとともに自分を助けに来てくれるよう求めていました。自らが「世を去る時が近づきました」(4:6)と考えているパウロは「愛する子テモテ」(1:2)に対して熱意と不動の信仰によって誤った教えに立ち向かうよう求めている。そのために必要なことは過去に受けた教えに立ち戻ること、迫害の下での忍耐、信仰上のつとめを果たすこと、裁きのときに備えることなどが述べられていました。

 

テモテ書

"聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。(2テモテ3章16節ー17節)"

 

パウロ書簡、テトスへの手紙

パウロからクレタに残された彼の弟子であるテトス(『第2コリント書』 8:23)へ宛てた形をとる。 内容は、クレタにおいて長老と監督者を立ててもらうための依頼とその基準の教示、異教・異端に対する警告でした。

 

パウロ書簡、フィレモンへの手紙

現存するパウロ書簡の中ではもっとも短く25節しかありません。

内容は特定の所用のために書かれたものであるので、『フィレモン書』が神学や思想に殆ど触れていない事は無理もない。マルティン・ルターは『フィレモン書』をパウロとキリストに共通する「ゆるし」という視点から捉えていますが、ルターもこの手紙でパウロが社会制度の変革を考えているとは考えなかった。つまりパウロはオネシモの奴隷身分については変えようとせず、当時の法律に従って逃亡奴隷であるオネシモを主人フィレモンのもとに送り返そうとしているのでした。

 

パウロ書簡は詳細な事情については書かないことが多く、此の手紙でもパウロはオネシモの件を解決するため、フィレモンの「キリスト者としての愛」に訴えています。パウロはオネシモのフィレモンに対する借りを自分のものにしてくれるよう頼むことで帳消しにするとともに、フィレモンもまたパウロに借りがあることを想起させる。パウロはオネシモが信仰に入ったことで、新たな身分になったとし、オネシモが「奴隷でなく愛する兄弟として」フィレモンの元に戻れるよう配慮している。

 

此の箇所が具体的に何を言おうとしているのか、パウロがフィレモンに何を望んでいたのか、つまりオネシモを許すことか、それ以上に奴隷から解放することなのかはよくわかっていません。パウロの望みが、オネシモがフィレモンにとって「奴隷にして兄弟」であることか、「奴隷でなく兄弟」なのか書簡からは読み取れない。この点に関しては聖書学者たちの意見も分かれていますが、パウロにとって福音が「奴隷制度」という当時当たり前だった社会構造にくさびを打ち込むものと考えていたと見るものもいます。

(以下5月29日追記)

 

公同書簡ヤコブの手紙

著者は冒頭部分で、自らを「主イエス・キリストのしもべであるヤコブ」と名乗る。新約聖書にはヤコブなる人物が複数現れますが、その中でこの手紙を書いたと考えうるの3人います。

 

1、「義人ヤコブ
三世紀の半ば以降、教父たちはイエスの兄弟(カトリック教会の解釈では従兄弟などの親類)で「義人」と呼ばれたヤコブが本書簡の著者であるとしてきました。彼は十二使徒には含まれておらず、パウロが『ガラテヤの信徒への手紙』で「主の兄弟」(1:19)、「教会の三人の柱の一人」(2:9)として言及する人物です。

 

2、「アルファイの子ヤコブ
ジャン・カルヴァンなどは著書は「主の兄弟」ヤコブではなくマタイの兄弟でレビとも呼ばれた「アルファイの子」ヤコブであるという。アルファイの子ヤコブは『マルコによる福音書』15:40に出る「ヤコブ」と同一人物ではないかと考えられるが、この人物についてはほとんど何もわかっていません

 

3、使徒の一人「大ヤコブ
本書簡の著者をこの「大ヤコブ」であるとする見方は稀で、彼は使徒ヨハネの兄弟でゼベダイの子であったとされます。然し、彼は早くに殉教していることから、此の書簡を彼が書いたとは考えにくい。何故ならヤコブの殉教は紀元44年以前ですが、本書簡が書かれたのはパウロの義化という考えに対する教会内の誤った認識を正すためであり、早くても50年代と考えられるからです。

 

ヤコブの手紙の内容

本書は各地に離散する(ディアスポラの)ユダヤ人にあてて書かれています。

著者が筆をとったのは、キリスト者の生活に於ける行いの重要性について再確認して貰うためであった。著者は次のようなものを危険視していました。

まず形式主義、これは神への奉仕を形だけのものにしてしまう。
誘惑を神に帰すること(1:13)
貧富の差で人を分けること(2:2)
言葉で過ちを犯すこと(3:2-12)
自慢や偽証(3:14)
悪口(4:11)
高慢(4:16)
贅沢(5:4)
などです。著者がキリスト者に向かってもっとも強調することは

試練における忍耐(5:7)
よきわざにおける忍耐(1:22-25)
主の再臨が近づき、その日になればすべての不義が正されるため、その日まで忍耐することが求められている。(5:8)
「行いによって義とされること」、このヤコブの主張は一見するとパウロが書簡の中で述べる「信仰によって義とされること」の反対の立場のように見える。この問題を解決するひとつの考え方はヤコブは「他者の前で義とされること」について語っており、パウロは「神の前で義とされること」について語っているというものです。

また、ヤコブは「行い=隣人愛」、パウロは「行い=古い律法」について語っている、というものです。

教父たちのあるものは、この問題を解決するために次のような考えを示しました。それは人間に救いを齎す信仰は愛によっていきいきとしたものとされるものであり、その愛ゆえに必ずよい行いを伴うということです。だから「信仰だけ」というのは単に頭で理解した言葉に過ぎないという見方ができます。その意味で興味深いのは使徒言行録26:20である。そこでパウロは「悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするよう」呼びかけました。ある人はこれこそパウロヤコブのいうすべての生きた信仰が行いを伴うという考え方に賛同を示したものだとみていはした。

此の様に見てみると、ヤコブは福音を伝えているというより、道徳を教えているというのが適切だと思われます。 ヤコブは福音の核心を提示するよりもよいものと悪いものを並べることで倫理全体のありかたを示していました。此の様な反対のものを同時に示す書き方(光と影、正と偽など)はイエスの教えや、クムラン文書、『十二使徒の教え』などにも見られます。

また『ヤコブの手紙』は(嘗て臨終の秘蹟といわれたこともある)病者の塗油の聖書における根拠を含んでいるとみなされてきた。5:14~15でヤコブは共同体の中で病人が現れた場合の対処を示しており、これが後にカトリック教会の病者の塗油の形式になりました。

 

ペトロの手紙(1)

使徒の筆頭格であるペトロによるとされる書簡は2通あるなかで、『ペトロの手紙二』の扱いについては初代教会の時代から問題とされることが多かったですが、第一の手紙に関しては問題もなくすんなりと新約聖書の正典におさめられました。

 

内容的には異邦人に向けられています。初めにあげられているのは小アジアの五州で、著者は迫害に耐えること(1:2-10)、聖なる生活を送ること(2:11-3:13)、キリストにならって忍耐と聖性を示すこと(3:14-4:19)、最後は指導者たちへの助言によって締めくくっている(5章)。

本書の記述で注目すべきものは「終わりのときに、死者にまで福音が告げ知らされ、肉において裁かれ、神のうちに霊によって生きるようになる」(4:6)というものです。この表現は、福音書(マタイ16:18他)や使徒言行録2:27、ヨハネ黙示録(1:18他)に出てくるハデスの表現と共に、後に使徒信条に「陰府にくだり」という箇所で書き込まれることになり、以降のキリスト教思想において「陰府」の存在根拠のひとつとされることになります。

 

ペトロの手紙(2)

偽教師の誤った教えを攻撃しつつも、キリストの再臨が必ずあることを説く。いわゆる「終末の遅延」の問題を扱っている文書です。

イエス・キリストの使徒であったペトロが、死を目前にした状況で書いたという体裁になっている書簡で、全3章で構成されます。偽教師たちが説く偽りの教えを攻撃しつつも、最後の審判がいつになったら来るのかと揶揄する不信心者たちの誤りを指摘し、正しい信仰を堅持するように説いています。

 

構成

第1章

挨拶

神の素晴らしい約束・ キリストを知る者への素晴らしい約束とその実現の道

キリストの栄光と予言(旧約)の言葉・キリストの威光の目撃者の証言と勧め

エスの再臨と栄光の目撃者ペトロが遺言として確証する

 

第1章の要約

何れにせよ著者は自らが天に召されるときが近いことを述べ、殉教を前にした遺訓であることを示している(1章13 - 15節)

著者は第一ペトロ書とも重なり合う徳目表を示しています。即ち、それは「信仰」「徳」「知識」「節制」「忍耐」「信心」「兄弟愛」「愛」である(1章5 - 7節)。この徳目表にはヘレニズム的倫理用語が含まれますが、それを挟む「信仰」と「愛」が、それらの用語をキリスト教的なものとしています。それらはイエス・キリストの知識を得るために必要なものであり、読者は自らの努力によって、神による「召しと選び」を確実なものとすべきことが示されています。

1章の最後では「聖書」(この場合はいわゆる旧約聖書)が霊感によって書かれたものであることを述べ、預言者の言葉が神に由来することが示されています。此処から、神の言葉を勝手に解釈することが禁じられています。この点は3章に再び登場します。

 

第2章

偽預言者と偽教師についての警告・ 主を否定する偽教師たちの出現に関する警告・ 偽教師の出現の予告と彼らへの非難(ユダ書に基づいて)

 

第2章の要約

2章では旧約聖書の偽預言者の例を引きつつ、偽教師について警告を発しています。偽教師は神の啓示を捏造する偽預言者と違って、作り出した偽の教えを広める存在です。その批判の仕方はリベラル派からは「罵詈雑言」などとまで言われることがある厳しいものであり、福音派にも、少なくとも警告の遠慮のなさを認める意見は見られます。

その偽教師への批判に於いては、旧約聖書の『創世記』に登場するノアやロト、『民数記』に登場するバラムなどへの言及が見られます。但し、その多くは同じ公同書簡に含まれる『ユダの手紙』(以下、「ユダ書」)と共通しており、2章はユダ書3節から16節と非常によく似通っています。

 

"1 しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。2 また、大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。3 彼らは、貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう。彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない。"

 

"4 神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた。"

 

"6 また、ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し、不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし、7 ただ、非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロトだけを救い出された。"

 

"12 これらの者は、捕えられ、ほふられるために生れてきた、分別のない動物のようなもので、自分が知りもしないことをそ知り、その不義の報いとして罰を受け、必ず滅ぼされてしまうのである。"

 

"15 彼らは正しい道からはずれて迷いに陥り、ベオルの子バラムの道に従った。バラムは不義の実を愛し、16 そのために、自分のあやまちに対するとがめを受けた。ものを言わないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂気じみたふるまいをはばんだのである。17 この人々は、いわば、水のない井戸、突風に吹きはらわれる霧であって、彼らには暗やみが用意されている"

 

第3章

主の来臨の約束・主の来臨を待ち望む者の生き方・再臨を否定する人々への反証と勧告、結びの勧告と賛美

 

第3章の要約

第3章ではいわゆる「終末の遅延」の問題が扱われています。福音書に伝えられているイエスの言葉には、終末が間近に迫っていると理解できるものがありました。また、パウロも終末が間近に迫っているものと考えていました。例えば、『テサロニケの信徒への手紙一』にはこうある。

 

"15 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。 16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。"

 

こうした状況の中、「あざける者」すなわち偽教師たちが、再臨を否定する言説を展開し、教会に対し分裂の危機を齎しました。それに対する反論が第3章の主眼でした。少し長くなりますが、中心的な箇所を引用します。

 

"3 まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、4「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。 5 すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、6その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。 7 しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。 8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。 9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。 10 しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。 11 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、12 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。13 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。14 愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。"

 

まず終末を否定するものの出現はそれ自体が終末の徴であるとします。そして、「あなたの目の前には千年も過ぎ去れば昨日の如く、夜の間のひと時のようです」(『詩篇』90章4節)などを念頭に置きつつ、神は人間の時間概念では捉えられないことを示します。そして、新約正典の他の文書にも見られる盗人の喩えを引き合いに出しつつ、いつ来てもよいように「きよく信心深い」生活をすることが勧められており、それこそが再臨を「早める」ことになるのだと説かれています。

此処で注意すべき事は、著者は終末の到来を先送りすることに力点を置いているのではなく、偽教師たちがいつまでも来ないと揶揄した終末が、自分たちの間近に迫っているという期待を表明することにあったという点です。そして、その終末への希望は、後のキリスト教徒たちが迫害に耐えて信仰を固守する根拠となりました。

 

ヨハネの手紙(1)

著者によれば、この手紙が書かれた理由は「神の子を信じるあなたがたが、永遠の命を得ていることを知るためである。」(5:18)著者が気にかけているのは自分が携わっている共同体に影響を及ぼす異端的な思想を持つ教師たちのことである。このような人々、かつて共同体のメンバーだったにもかかわらず正当な教えから逸脱した教師たちは「反キリスト」(2:18-19)とみなされている。これらの人々が教えていたのはキリストは体の実体を持たない霊のみの存在(4:2)であったということで、彼らはイエスの十字架上の死に贖罪の意義を付与するのは間違いである(1:7)と考えていました。

目的は手紙のあて先の人々に対して、命の言葉を述べ伝えること、それによって父なる神と子であるキリストとの交わりの中に入ることである。神との合一の意味を、キリストについていえば、その罪の償い(1:7、2:2、3:5、4:10-14、5:11-12)と神への弁護者としての意味(2:1)を、人間について言えば、聖性(1:6)、おきてに従うこと(2:3)、清め(3:3)、信仰(3:23、4:3、5:5)、愛(2:7)における意義を示しています。

 

ヨハネの手紙(2)

「長老のわたし」は、手紙の受取人に対しその信仰を称賛し、互いに愛し合うことの大切さを説き、偽教師に警戒するよう勧めています。その内容には第一の手紙との並行関係をかなりの程度読み取ることができ、ギュンター・ボルンカムは第一の手紙に比べて「何ら新しいものを齎さない」とまで評しています。他方で、他のヨハネ文書に見られない特色として、3節の「憐み」の付加、8節の「報い」について、10節の異端に対する「挨拶」の禁止の3点を挙げる者もいます。

挨拶の禁止は反キリストに向けられています。此処での反キリストは「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者」(7節)を指す。ここで排撃されている仮現説的な思想はグノーシス主義と推測されることもあります。他にも、第一の手紙で排撃されている思想と関連付けつつ、ケリントスとの類似性が指摘されることもありますが、相違点も見られます。挨拶は当時のオリエントにおいては仲間や連帯を意味する行為であったとされ、その事がこうした厳格な禁止の背景にあったとも言われています。「その人を家に入れること」も禁じるということとあわせ、地域的背景として、異端の教えを説く者が巡回説教者として巡っていたのだろうと推測されています。

 

ヨハネの手紙(3)

本書は新約聖書の正典を構成する27文書の一つで、公同書簡に分類される3通のヨハネ書簡の最後のものです。ガイオという人物に宛てて、他のキリスト教徒を受け入れ、親切にすることを説いたこの書簡は15節しかなく、旧約・新約聖書の中でも短さの点で一、二を争うものです。1世紀後半から2世紀初め頃に成立したと考えられていますが、その短さや教理的要素の少なさもあって、キリスト教文献での直接的言及は3世紀まで見られず、正典と広く承認されるまでに時間を要しました。

神学的内容は希薄とされ、新約聖書の中で重視されてきたとは言いがたいですが、信徒同士が親切にしあうことの大切さや尊大に振舞うことへの戒めが説かれていると見做されており、教会制度の過渡期の様子を伝えているという歴史的側面からの評価もなされています。

(以下5月30日追記)

 

ユダの手紙

ユダ書は新約聖書の中でも僅か25節の短い書簡であり、異端に対して厳しい批判を展開すると共に、信徒に正しい信仰を守ることを勧めています。

但し、新約聖書で章分けされていないのは『フィレモンへの手紙』(25節)、『ヨハネの手紙二』(13節)、『ヨハネの手紙三』(15節)、そしてこのユダ書の4通の書簡のみだが、単語数で見た場合、その中では最も長いものです。

ユダ書は短く、しばしば具体性を欠くことなどが批判され、田川建三は「第二ペテロ二章との比較の役に立つ以外には、何の価値もない」と断じているました。

 

主題

ユダ書は「異端に対する烈しい反論の書」です。但し、その反論は異端の教理を具体的に取り上げて論駁する形をとらず、彼らの不品行を批判したり、旧約聖書などを引き合いに出したりしつつ、異端の末路がどのようなものかを示すものとなっています。そのため、ここで攻撃されている異端がどのような存在であったかについては不明瞭な部分もありますが、グノーシス主義的な思想に基づく自由放縦な人々がしばしば想定されます。ユダ書の目的は、そうした異端との対決、あるいは偽教師たちについての警告などと位置づけられています。

 

ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録新約聖書の最後に配された聖典であり、『新約聖書』の中で唯一預言書的性格を持つ書です。主に終末論について書かれています。

 

構成

文中では著者自ら「ヨハネ」と名乗り、終末に於いて起こるであろう出来事の幻を見たと語る。『黙示録』は以下の様な構成となっています。

 

第1章 緒言(1章)
初めの言葉(1:1-3)
七つの教会へのあいさつ(1:4-8)
ヨハネへの啓示が示された顛末(1:9-20)


第2章 七つの教会へのメッセージ(2章-3章)
エペソ教会: 偽りを退けたが、愛から離れた(2:1-7)
スミルナ教会: 貧しいが富んでいる。死に至るまで忠実であれ。(2:8-11)
ペルガモ教会: サタンの王座がある場所で忠実に証ししているが、ニコライ派の教えを悔い改めよ。(2:12-17)
テアテラ教会: 愛、奉仕、信仰、忍耐を知っているが、イザベラという女の好き勝手にさせている。(2:18-29)
サルデス教会: 死んでいる。目を覚まして悔い改めよ。 (3:1-6)
フィラデルフィヤ教会: 門を開く。みことばに従い、名を否まず、力があった。(3:7-13)
ラオデキヤ教会: 冷たいか熱くあれ。門の外に立ってたたく(3:14-22)


第3章 神の玉座 天における礼拝と小羊の登場(4章-5章)
神の御座に上れ(4:1-3)
聖なるかな聖なるかな聖なるかな(4:4-11)
子羊だけが封印を解くことのできる(5:1-7)
彼らは讃美をささげる (5:8-14)


第4章 子羊が七つの封印を開封する(6章-8章5節)
第一の封印:白い馬。勝利の上に更に勝利を得ようとして出て行く(6:1-2)
第二の封印:火のように赤い馬。戦争をもたらす(6:3-4)
第三の封印:黒い馬。飢饉をもたらす(6:5-6)
第四の封印:青ざめた馬。死をもたらす(6:7-8)
第五の封印:殉教者が血の復讐を求める(6:9-11)
第六の封印:地震と天災(6:12-17)
神の刻印を押されたイスラエルの子ら(7:1-8)
大患難を通り、子羊の血で洗った白い衣を着た大群衆(7:9-17)
第七の封印:しばらく沈黙があり、祈りがささげられる(8:1-5)


第5章 七人の天使がラッパ(士気を上げる音)を吹く(8章6節-11章19節)
第一のラッパ:地上の三分の一、木々の三分の一、すべての青草が焼ける (8:6-7)
第二のラッパ:海の三分の一が血になり、海の生物の三分の一が死ぬ (8:8-9)
第三のラッパ:にがよもぎという星が落ちて、川の三分の一が苦くなり、人が死ぬ (8:10-11)
第四のラッパ:太陽、月、星の三分の一が暗くなる(8:12-13)
第五のラッパ:いなごが額に神の刻印がない人を5ヶ月苦しめる(9:1-12)
第六のラッパ:四人の天使が人間の三分の一を殺した。生き残った人間は相変わらず悪霊、金、銀、銅、石の偶像を拝んだ(9:13-21)
天使に渡された小さな巻物を食べた。腹には苦いが、口には甘い(10:1-11)
二人の証人が殺されるが生き返る(11:1-14)
第七のラッパ:この世の国はわれらの主、メシアのものとなった。天の神殿が開かれ、契約の箱が見える。(11:15-19)


第6章 天の戦い、地における獣の増大、地の刈り入れ(12章-14章)
女を見た。太陽を着て、月を踏み、12の星をかぶる(12:1-6)
天で戦いが起こった。サタンが地に投げ落とされる(12:7-12)
赤い竜が神の民を迫害する(12:13-17)
獣が神の民と戦うために海の中から上ってくる。いのちの書に名が記されていないものはこれを拝む(13:1-10)
獣が地から上ってくる。獣の刻印を付ける (13:11-18)
エルサレムのシオンの山の子羊(14:1-5)
三人の天使が裁きを宣言する(14:6-13)
鎌が地に投げ入れられる(14:14-20)


第7章 最後の七つの災い 神の怒りが極みに達する(15章-16章)
七人の天使が神の怒りの満ちた七つの鉢を受け取る(15:1-8)
神の怒りを地にぶちまける(16:1)
第一の鉢:獣のしるしを付ける者、獣の像を拝む者に悪性のはれ物ができる(16:2)
第二の鉢:海が死人の血のようになって海の生物がみんな死ぬ(16:3)
第三の鉢:水が血に変わる(16:4-7)
第四の鉢:人間が太陽の火で焼かれる。それでも神を冒涜し、悔い改めない(16:8-9)
第五の鉢:獣の国が闇におおわれる。激しい苦痛(16:10-11)
第六の鉢:しるしを行う3匹の悪霊、ハルマゲドンに王を集める(16:12-16)
第七の鉢:大地震 島も山も消える(16:17-21)


第8章 大淫婦の裁きとバビロンの滅亡(17章-18章)
大淫婦が裁かれる(17:1-18)
バビロンの滅亡 (18:1-8)
人々がバビロンの滅亡をなげく(18:9-19)
喜べ。バビロンが完全に滅びる(18:20-24)


第9章 天に於ける礼拝 子羊の婚礼(19章1-10節)
大群集が神を讃美する(19:1-6)
子羊の婚宴(19:7-10)


第10章 キリストの千年の統治の開始、サタンと人々の裁き(19章11節-20章)
この世の支配者たちの上に君臨される方
白い馬に乗った方の名は「誠実」「真実」、血に染まった服を着る「神のことば」、「王の王」「主の主」(19:11-16)
獣と偽預言者が火の池に投げ込まれる (19:17-21)
千年王国
サタンは底知れぬ所に封印されるが、その後しばらく自由の身となる (20:1-3)
殉教者と、獣の像を拝まず、獣の刻印を受けなかった者が復活して、千年間統治する。(20:4-6)
千年王国の後
サタンが一時的に解放されて神の民と戦うが、滅ぼされる(20:7-9)
サタンが獣や偽預言者もいる火と硫黄の池に投げ込まれて、永遠に苦しむ(20:10)
最後の裁き:いのちの書に名が無い者がすべて火の池に投げ込まれて、永遠に苦しむ (20:11-15)


第11章 新天新地
新しい天と新しい地 最初の天と地は去った。(21:1-8)
神が人と共に住み、涙をぬぐわれる、死もなく、悲しみもない。そこにはいのちの書に名が書かれている者だけが入ることが出来る。(21:2-8)
新しいエルサレムの説明 (21:9-27)
神と子羊の玉座からいのちの水の川が流れる(22:1-5)


第12章 全体の結び
イエス・キリストの再臨(22:6-17)
警告:この書物に(記述を)付け加える者には災害が加えられ、(記述を)取り除く者からはいのちの木と聖なる都から受ける分が取り上げられる。 (22:18-21)

 

 

ヨハネの黙示録に対する解釈

『黙示録』は歴史の中で様々に論じられてきました。特に『聖書』の中でも此処にしか現れない「千年王国」論の特殊性への賛否やキリストの再臨の解釈をめぐって多くの議論を巻き起こしました。しかし、歴史の中で現れた多くの解釈をまとめると預言書、文学、普遍的イメージの三つの見方に集約することが出来るとする意見もあります。

 

1、預言者としての解釈

此の見方は『黙示録』を『ダニエル書』などの流れにある終末預言の一つであるとして、未来の事柄についても語られた終末預言書とみる見方です。

マルティン・ルターら歴史的なプロテスタントの黙示録理解は、歴史主義解釈というもので、起こっていない未来の出来事を預言として与えられたという見方です。此の立場では、未来にキリスト教の教理であるイエス・キリストの再臨、人間の体の復活、最後の審判、天国あるいは地獄への裁き、新天新地の到来があると信じられています。

 

2、文学類型としての解釈

此の見方では、『黙示録』は、紀元前2世紀以降のユダヤ教で起こった終末思想とそれに従って書かれた『ダニエル書』などの一連の黙示文学の影響を受けたキリスト教的黙示文学であると解釈する。この見方が18世紀以降、自由主義神学の高等批評を受け入れる研究者の中では主流となっている。この解釈に沿ってみていくと、『黙示録』が『ダニエル書』などの一連の黙示文学と同じ「幻のうちに受ける啓示」、「歴史区分の提示」、「神の完全な支配の実現」などのパターンに沿って書かれているということがよくわかります。

(黙示 も参照のこと)

 

3、普遍的テーマのイメージ化としての解釈

20世紀以降、『黙示録』を「善と悪の対立」および「善の最終的な勝利」という普遍的テーマを著者のイマジネーションによって自由にイメージ化した作品という解釈が現れました。

他にも著者ヨハネが死に瀕した苦痛を和らげるため天然麻薬であるニガヨモギを吸い、それによって見た幻覚であるという説(麻薬幻覚説)もありますが、この説は正式な学問的確証に基づいたものでないため、聖書学者たちに受け入れられたことはないです。

幻覚説を除けば、三つの説はいずれも排他的なものでなく、どれか一つをとれば他の二つは間違いであるといった性質のものではないとする立場もあるが、一般に現代のリベラルな教派の間では、第二の「文学類型」的解釈が主流で未来に起こることが預言として与えられていると考える者は少ないです。

 

キリスト教の教理

但し、プロテスタント信仰告白では、ウェストミンスター信仰告白にも、未来に起こることがらである再臨と最後の審判の根拠の聖句としてあげられています。今日でも歴史的なキリスト教終末論の理解からは、使徒ヨハネが神の啓示を受けたと信じられています。

 

黙示

黙示(アポカリプス)は、初期のユダヤ教およびキリスト教に於いて、神が選ばれた預言者に与えたとする「秘密の暴露」、またそれを記録したものです。黙示を記録した書を黙示文学(もくしぶんがく)といいます。黙示文学はユダヤ教キリスト教イスラム教の伝統において極めて重要です。

黙示文学では、天地創造以来現代を経て終末に至るまでの時代区分の説明、善と悪の対立、現代が悪の支配する時代であるという認識、終末による悪の時代の終焉、死者の復活、最後の審判、天国と地獄などの教義が与えられています。

 

宗教文書としての黙示文学は文学の明らかな派生形態と見做されます。この領域には幾つかの特徴をなす要素があります。

 

秘儀の啓示

黙示とは秘儀、即ち人間の知識の通常の範囲を超えたところにあるものの啓示であります。神は預言者あるいは聖人を選び、隠された事柄についての教示を与えま。それらの隠された事柄とは人間の経験からは疎遠なものごとであるか、さもなければ人類史のなかにいまだ起こっていない出来事です。天界の秘儀の幾つかが、詳細はどうあれ明かされます。その内容は、神の目的、天使および悪霊の行為と特徴、自然現象の説明、天地創造および最初期の人類の歴史、人類の歴史の区分と善悪の勢力による支配、ごく近い将来に差し迫った出来事、とりわけイスラエルの未来に関係のある出来事、世界の終わり、最後の審判、人類の運命、メシアの再臨、天国と地獄の描写などです。

 

夢または幻を通じた啓示

隠された知恵の啓示は、幻あるいは夢によって与えられます。

旧約聖書における黙示文学の主要な例は『ダニエル書』の中に見出されます。ダニエルが長い断食の後川のほとりに立っていると、天の使いが彼に顕れ、そのあとに啓示が続いた(ダニエル書 10:2-4)。ヨハネもまた『ヨハネの黙示録』のなかで、似たような経験を極めて類似した言葉で綴っています。

 

未来との関係

黙示文学の典型的な構成に於いては、筆者の主要な関心は未来にあります。基本的に黙示とは、通常は明白な宗教的な目的をもった預言者が、神が人間を扱う方法と神の究極の目的を示すことを意図しています。

 

神秘的または幻想的要素

神秘的な要素は主題と書き方の両方に顕著であり、典型的な黙示文学すべてに共通して明らかな要素です。 

 

終末論

神や絶対者の審判や未来での救済に求めようとするのは、どこの文化でも宗教一般に見られ、ユダヤ教からキリスト教イスラム教、ゾロアスター教といった一神教においてのみならず、仏教などの宗教などにおいても同様の考え方があります。しかし、終末ということの基準を、個々人の死の意味ではなく、民全体にとっての最後のとき、民全体に対する最後の審判と義人選別救済のとき、とするならば、終末論は本質的に一神教のものと見做されます。

キリスト教の場合、具体的に四終(死・審判・天国・地獄)という言葉に由来し、イエス・キリストの復活と最後の審判への待望という事を述べています。

 

もし人間の人智を超えたロボットが世の中に現れたのならば、壊されても修理可能な上、酸素のない宇宙空間や極寒の南極やエベレストやマリアナ海溝でも平気で飛び込むことが可能で人類の如何なる天才をも上回る知能と不老長寿であるとすれば、死や地球の終末論といった概念を打ち破る事になります。

それでも、宗教で学んだ知識は決して無駄になる事はないと僕は考えています。

 

聖書の目次

旧約聖書(39書)
律法の書
創世紀ーーーー神の創造のわざとアブラハムとの契約 (モーセ五書
出エジプト記ーーイスラエルとの契約と律法
レビ記ーーーーモラル、儀式的な律法
民数記ーーーー約束の地への旅路
申命記ーーーー契約と律法の復習
歴史書(十二書)
ヨシュヤ記ーーー約束の地、カナンの征服
士師記ーーーーカナンの地で士師がイスラエルを治めた記録
ルツ記ーーーー士師の時代におけるルツという女性の話
1サミエルーーーサウロ王の確立
2サミエルーーーダビデ王の確立
1列王記ーーーーソロモン王の確立、王国の分裂
2列王記ーーーー南と北王国の歴史
1歴代誌ーーーー創世紀からの系図からダビデ王まで
2歴代誌ーーーーソロモン王から南と北王国の歴史
エズラ記ーーーーバビロンからの帰還と神殿建設
ネヘミヤ記ーーーバビロンからの帰還とエルサレムの壁建設
エステル記ーーーペルシャ時代におけるユダヤ人たちの話
知恵文学 (五書)
ヨブ記ーーーーー人生の苦しみと神の答え
詩篇ーーーーー神への賛美と賛歌
箴言ーーーーー知恵ある人生
伝道者の書ーー人生の目的
雅歌ーーーーー結婚生活の賛歌
大預言書(五書)
イザヤ書ーーーー前730、神の支配と希望
エレミヤ書ーーー前580、南の王国滅亡と希望
哀歌ーーーーーー前580、南の王国滅亡と悲しみ
エゼキエル書ーー前580、南王国滅亡と復帰
ダニエル書ーーー前580、神の支配
小預言書 (十二書) 
ホセヤ書ーーーー前730、イスラエルの不義
ヨエル書ーーーー時代不明、神の裁き
アモス書ーーーー前730、社会的不義と神の裁き
オバデヤ書ーーー前580前後、神のエドムに対する裁き
ヨナ書ーーーーー前780、ニネベ伝道
ミカ書ーーーーー前730、神が求めるもの
ナホム書ーーーー前650、神の権威とニネベの運命
ハバクク書ーーー前600、神の義とユダの不義
ゼパニヤ書ーーー前620、神の審判
ハガイ書ーーーー前520、神殿建設
ゼカリヤ書ーーー前520、神殿建設
マラキ書ーーーー前460、悔い改めよ
新約聖書(二十七書)
福音書
マタイーーーーイエス・キリストの生涯と倫理的な教え
マルコーーーーイエス・キリストの愛のわざ
ルカーーーーーイエス・キリストを通して示された人への愛
ヨハネーーーーイエス・キリストを信じる為に書かれた書
教会の成長を記録した書
使徒の働きーーーー 聖霊によるペテロとパウロの働きを通しての初期教会の成長の記録
諸教会に宛てた手紙
ローマーーーー信仰による救い
1コリントーーーー分派分裂の問題
2コリントーーーーパウロの使徒としての権威
ガラテヤーーーー律法ではなく信仰と恵みによる救い
エペソーーーー神のイエス・キリストによる永遠の計画
ピリピーーーーイエス・キリストにある喜び
コロサイーーーー神であるイエス・キリスト
1テサロニケーーー主の再臨についての確証
2テサロニケーーー主の再臨まで主にあって励みなさい
1テモテーーーー偽教師に対するテモテへのアドバイス
2テモテーーーーパウロの最後のことば
テトスーーーーテトスへの命令・長老の任命
ピレモンーーーー主人と奴隷の和解のための助言
ヤコブーーーークリスチャンのための倫理的な教えと動機
1ペテローーーークリスチャンとして迫害に対する
2ペテローーーー偽教師に対処する
ヨハネーーーー互いに愛しなさい
ヨハネーーーー偽教師と本物の教師を見極める
ヨハネーーーー旅人をもてなす
ユダーーーー偽教師についての警告 説教の記録
ヘブルーーーー大祭司イエス・キリストによる新しい契約
黙示文学
黙示録ーーーーローマ帝国の偶像礼拝支配の中でも イエス・キリストによってクリスチャンが勝利 するという保証
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元祖美少女人形計画の記念日

 元祖美少女人形計画

今日は何の日か? そう、美少女ロボット計画の全てが始まった日なんです。

2002年5月24日に創立され、6月12日に正式発表された元祖美少女ロボット計画の当時の名称は等身大少女ロボット人形計画でした。
何故「ロボット人形」としてあるのかというと、人形は朝起きてもずっと目を開けたままである。
お風呂に入れるとぐしょぐしょになり重くなり乾くのに時間がかかる。
話かけても喋らない。瞬きしない。
やがて自分の体臭や染みがついて臭くなる。といった欠点があるからです。
それを改善し克服したのが美少女ロボットです。
この『ロボット』という単語が付いたことで計画が発展し、現在の『美少女ロボット計画』となりました。

 

皆さん、どうぞ此の日を祝ってください。

 

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美少女ロボット計画2017 第11章 宗教から学ぶ美少女ロボット計画@ユダヤ教編

美少女ロボット計画

何故ユダヤ教を先にしたのかと言うと、キリスト教の元となった宗教でもあり歴史が古いからです。内容も旧約聖書に準拠しています。

ユダヤ教イスラム教、キリスト教は共に『アブラハムの宗教』と呼ばれています。

ユダヤ教は、古代の中近東で始まった唯一神ヤハウェ(יהוה)を神とし、選民思想やメシア(救世主)信仰などを特色とするユダヤ人の民族宗教です。

ユダヤ教聖典はタナハと呼ばれるもので、これはキリスト教の『旧約聖書』と同じ書物です。ただし、成立状況が異なるので、キリスト教とは書物の配列が異なる。イスラム教でも『モーセ五書』は『クルアーン』に次いで重要視されます。ユダヤ教では、この他にタルムードをはじめとしたラビ文学も重視します。

ユダヤ教は信仰、教義そのもの以上に、その前提としての行為・行動の実践と学究を重視し、キリスト教、特にルター主義とは違います。その為にやるべき事が多く、本当の意味でユダヤ教徒になるには他の宗教よりも時間がかかります。

 

ユダヤ教では、改宗前の宗教に関係なく、「地上の全ての民が、聖なるものに近づくことができる、救いを得ることができる」、と考えていて「改宗者を愛せ」という考え方は、次のようなことばにもみることができます。

寄留者(ゲール)を愛しなさい:あなた達がエジプトにおいて寄留者であったからである (ミツワー、典拠は申命記10:19)

 

すなわち、血縁よりも教徒としての行動が重要視されることも多い。非ユダヤ人も神の下僕となり、神との契約を守るならユダヤ教徒になることができるとされます。ユダヤ人が神の祭司であるのに対し、非ユダヤ人は労役に服するという差別性があります。

 

ユダヤ教の教え

ユダヤ教徒はタルムードと呼ばれる教典に従って行動すると知られているが、これはラビ的ユダヤ教徒に限られます。タルムードは2世紀頃からユダヤ人の間で幾たびも議論の末に改良を重ねられてきた生活および思想の基礎であり、家族やユダヤ人同士でタルムードの内容について討議する事もあります。

 

教育

ユダヤ教に於いて最も特徴のある分野は教育でユダヤ教徒は教育こそが身を守る手段と考え、国を守るには兵隊を生み出すよりも子供によい教育を受けさせるべきとされています。そのため一般大衆のほとんどが文盲だった紀元前からユダヤ人の共同体では授業料が無料の公立学校が存在していました。平均的なユダヤ教徒は非常に教育熱心で、多くの親は子供をよい学校に行かせるためには借金をすることも当然と考えています。家庭では特に父親の存在が重要で、先導して子供に勉強、タルムードなどを教え、子供を立派なユダヤ人に育てたものは永遠の魂を得ると信じられています。また子供が13歳に達するとバル・ミツワー(成人式)の儀式が行われ完全に大人と同様と扱われます。

 

死生観

一般的な宗教に見られる「死後の世界」というものは存在しない。最後の審判の時にすべての魂が復活し、現世で善行(貧者の救済など)を成し遂げた者は永遠の魂を手に入れ、悪行を重ねた者は地獄に落ちると考えられています。

 

労働

労働は神の行った行為のひとつであるため、神聖な行為と考えられています。そして、安息日と呼ばれる休日を週1回は必ず行うべきであり、安息日の間は労働はしてはならず、機械に触れてもいけない。自分自身を見つめ、自分と対話したり、家族と対話したりします。

人間は創造主の代わりに労働をする存在として作られたとされ、 労働により得た賃金や物質は一部を創造主に捧げなければなりません。

 

性行為

ユダヤ教では性衝動や性行為は自然なもので、必要悪と見なすことは無いです。 夫婦の性行為はそれを捻じ曲げることがむしろ罪であるとされます。 また、快楽を伴わない性交は罪とされます。但し妊娠・出産を重視する教義のために、保守的な派閥の一部には、自慰行為を悪と見做す意見が存在します。

美少女ロボット計画2017 第11章 宗教から学ぶ美少女ロボット計画@儒教編

美少女ロボット計画

儒教とは、孔子によって体系化された教えのことです。

『仁(人間愛)と礼(規範)に基づく理想社会の実現』孔子は、それまでのシャーマニズムのような原始儒教を体系化し、一つの道徳・思想に昇華させました。その根本義は「仁」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた。

儒教に於ける聖人とは、偉大・崇高・高貴の三要素を兼ねているな人物を指します。即ち、政治指導者としてだけではなく、道徳の体現者としても理想とされる人物です。高貴だが凡庸な人物、高貴だが下劣な人物、或いは下賎だが崇高な人物には該当しない。対義語で、凡庸・下劣・下賎の三要素を兼ねている人物は「小人」といいます。

 

 宋代になると、士大夫たちは自らを孔子孟子を継ぐ聖人となることを目指すようになり、「聖人、学んで至るべし」というスローガンのもと、道徳的な自己修養を重ねて聖人に到る学問を模索しました。明代の陽明学では「満街聖人」という街中の人が本来的に聖人であるとする主張をし、王や士大夫のみならず、庶民に至る全ての人が聖人となることができる可能性を見いだしたのです。

 

儒教の経典は『易』・『書』・『詩』・『礼』・『楽』・『春秋』の六芸(六経)です。

 

儒教の教義(五常

仁とは儒教に於ける徳の一つです。仁愛、人間愛のこと。とくに儒家によって強調されており、孔子がその中心にすえた倫理規定、人間関係の基本です。

人を思い遣る事。白川静孔子伝』によれば、「狩衣姿も凛々しい若者の頼もしさをいう語」。「説文解字」は「親」に通じると述べています。

また、孔子は聖人は仁者であるべきと悟りました。
論語」の中では、さまざまな説明がなされていて、孔子は仁を最高の徳目としていました。

主に「他人に対する親愛の情、優しさ」を意味しており、儒教における最重要な「五常の徳」のひとつです。また仁と義を合わせて、「仁義」と呼びます。古代から近代に至るまで中国人の倫理規定の最重要項目となってきました。中国の伝統的な社会秩序(礼)を支える精神、心のあり方です。

 

なお、孔子は、『論語』のなかで「仁」について明確な定義をおこなっておらず、相手によって、また質問に応じてさまざまに答えています。言い換えれば、儒家の立場に於いては「仁」とは人間にとってもっとも普遍的で包括的、根源的な愛を意味するものとして考えられてきたのであり、「孝」や「悌」、「忠」なども仁のひとつのあらわれだと主張されているのです。

 

聖人(後日移植予定です)

一般的に聖人とは、徳が高く、人格高潔で、生き方において他の人物の模範となるような人物のことで、仏教儒教キリスト教ユダヤ教イスラム教などの宗教に於ける聖人を意味します。

多くの場合、主に特定の宗教・宗派の中での教祖や高弟、崇拝・崇敬対象となる過去の人物を指します。

 

利欲に囚われず、すべきことをすること。

義は、人間の行動・志操・道徳で、良い・正しいとされる概念です。

義人とは「堅く正義を守る人。わが身の利害をかえりみずに他人のために尽くす人」(広辞苑第6版)。対義語で、行動・志操・道徳が「悪い」「邪(よこしま)」を意味する概念は「奸」(かん)といいます。

儒教に於ける義は、正しい行いを守ることであり、人間の欲望を追求する「利」と対立する概念として考えられています。孟子は羞悪の心が義の端であると説いて、羞悪の心とは、悪すなわちわるく・劣り・欠け、あるいはほしいままに振舞う心性を恥じる心のことです。

 

キリスト教に於ける義とは(キリスト教編にも以下同文を掲載)

キリスト教における義という訳語は、ギリシア語でΔικαιοσυνη dikaiosynee ディカイオシュネーと呼ばれるもので、罪の対立概念とされます。これは他者に対して正しい、誠実な、偽りのない態度で臨むこと、またそのような態度が可能である魂の状態をいい、義しい人を義人と呼びます。福音書パウロ書簡などで主題化される。

真に義であるのは神のみである(義人はいない)が、人間は神を信じることに於いて義に近づくことができる。信じないことは不義と同義であるとされます。『ヤコブの手紙』によれば義しさは、神への信仰を表明することのみならず、他の人間に対する行為において現れます。

 

ルターは人が行動において義とされること(行為義認)を否定し、信仰によってのみ人が義とされること、それまでのキリスト教で行われていた苦行、断食などの考えを否定しました。

これは当にイスラム教の禁欲主義を否定するのと同じようなものだと思います。

 

礼とは、様々な行事のなかで規定されている動作や言行、服装や道具などの総称。

人間関係を円滑にすすめ社会秩序(儒家にとっては身分制階級秩序)を維持するための道徳的な規範をも意味するようになっています。

仁を具体的な行動として、表したものです。もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味していました。のちに、人間の上下関係で守るべきことを意味するようになった。

 

孔子は礼について「克己復礼(自己に打ち克って礼に復帰する)」することが仁であると説き、仁を表現するうえで礼と仁は不可分のものと考えました。孟子も同様に、仁・義を美的に整え、飾るのが礼であると説いた。

儒家の礼の基本精神は供犠であり、「正しい」方法を守るという倫理的な支持以外の見返りを期待しない贈与です。孟子は「礼にかなっていなければ、どんなに飢えたひとであっても、施しの食事を受け取ることはない」と述べ、礼は人間のあり方として訓練されるべき規範であると説いた。

礼は規範ですが、法規範のように客観的・普遍的なものではなく、感情を様式化した主観的で特殊な規範です。礼の具体的な適用場面は王朝や時代に応じて適切な形に見直され、変形しています。

 

四礼

婚姻之礼 - その由来は人に「男女の情、妬忌の別」があるため。
郷飲之礼 - その由来は人に「交接長幼の序」があるため。
喪祭之礼 - その由来は人に「哀死思遠の情」があるため。
朝覲之礼 - その由来は人に「尊尊敬上の心」があるため。
後には「冠礼」・「婚礼」・「葬礼」・「祭礼」を四礼と呼んだ。

 

五礼

『周礼』大宗伯には礼が五つに分類されています。

吉礼 - 天地鬼神の祭祀(邦国の鬼神につかえる)
凶礼 - 葬儀・災害救済(邦国の憂いを哀れむ)
軍礼 - 出陣・凱旋(邦国を同じくする)
賓礼 - 外交(邦国に親しむ)
嘉礼 - 冠婚・饗宴・祝賀(万民に親しむ)

 

学問に励むこと。

 

言明を違えないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。

一般的には真実で偽りのないことで、信用。信仰。宗教・倫理の分野に於いて様々に用いられています。

 

儒教に於いては、五常仁義礼智信)の一徳目であり、友情に厚く、人をあざむかないこと、誠実なことです。孔子は「民、信なければ立たず」(人間は信がなければ生きていくことができない)と「信」の重要性を指摘しています。孟子は、人が守るべき「五倫」の道のなかに「朋友(ほうゆう)信あり」として「信」を守るべき徳のひとつとして掲げています。また、孟子の四端説における「仁義礼智」の四徳に対し、前漢代になって、五行説にもとづいて董仲舒により「信」の徳目が付け加えられ、合わせて「仁義礼智信」の「五常」と称されています。

 

仏教に於ける信

開祖仏陀ゴータマ・シッダールタ)の教えを信ずることによって、心が清らかに澄みわたることです。

 

イスラム教に於ける信

唯一全能の神(アッラーフ
天使の存在(マラーイカ
啓典(神の啓示、キターブ)
使徒・預言者(ラスール)
来世の存在(アーヒラ)
定命(カダル)
クルアーンの6か条がそれであり、これは「六信」と総称される。

 

 

美少女ロボット計画2017 第11章 宗教から学ぶ美少女ロボット計画@仏教編

美少女ロボット計画

宗教は哲学と人権と強い結び付きがあるもので、主な宗教の教義から美少女ロボットに何が必要かを考えます。また、美少女ロボットを製造竣工した際など、冠婚葬祭といった儀式も必要だと思います。

美少女ロボットを造るのは聖職者であるべきだと思うが故に聖職者に成る為の勉強を怠ってはならないと僕は真剣に考えています。

美少女ロボットの製造寺院では仏教キリスト教の祭壇を設けた部屋を設置する予定です。

 

 

それでは、各宗教の観点から解説していきますが、仏教キリスト教だけでも長くなるので1記事に纒めます。

 

仏教

仏教は釈迦を開祖とする北インドやネパールを発祥したアジア全体の宗教とも言えます。日本には何処に行っても至る所に寺があって、お寺と神社の違いは仏教神道の違いです。

仏教の世界観は必然的に、仏教誕生の地であるネパールの世界観である輪廻と解脱の考えに基づいています。人の一生は苦であり永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになります。その苦しみから抜け出すことが解脱であり、修行により解脱を目指すことが初期仏教の目的でした。

 

輪廻転生・六道・仏教と神

仏教に於いては、迷いの世界から解脱しない限り、無限に存在する前世と、生前の業、および臨終の心の状態などによって次の転生先へと輪廻するとされています。部派では「天・人・餓鬼・畜生・地獄」の五道、大乗仏教ではこれに修羅を加えた六道の転生先に生まれ変わるとされ、生前に良い行いを続け功徳を積めば次の輪廻では良き境遇(善趣)に生まれ変わり、悪業を積めば苦しい境遇(悪趣)に生まれ変わる。

 

六道

天道・人間道・修羅道・餓鬼道・畜生道地獄道の事です。

仏教に於いて、迷いがあるものが輪廻と言います。仏教では、輪廻を空間的事象、あるいは死後に趣く世界ではなく、心の状態として捉えます。例えば、天道界に趣けば、心の状態が天道のような状態にあり、地獄界に趣けば、心の状態が地獄のような状態である、と解釈されます。

 

天道 如意輪観音

天道は天人が住まう世界です。天人は人間よりも優れた存在とされ、寿命は非常に長く、また苦しみも人間道に比べて殆ど無いとされます。また、空を飛ぶことができ享楽のうちに生涯を過ごすといわれる。然しながら煩悩から解き放たれておらず、仏教に出会うこともないため解脱も出来ない。天人が死を迎えるときは5つの変化が現れる。これを五衰(天人五衰)と称し、体が垢に塗れて悪臭を放ち、脇から汗が出て自分の居場所を好まなくなり、頭の上の花が萎むと云われています。

 

人間道 不空羂索観音准胝観音

人間道は人間が住む世界です。四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界であるが、苦しみが続くばかりではなく楽しみもあるとされる。また、唯一自力で仏教に出会える世界であり、解脱し仏になりうるという救いもあります。

 

修羅道 十一面観音

修羅道は阿修羅の住まう世界です。修羅は終始戦い、争うとされます。苦しみや怒りが絶えないが地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに帰結するところが大きい世界です。

 

畜生道 馬頭観音

畜生道は牛馬など畜生の世界です。殆ど本能ばかりで生きており、使役されるがままという点からは自力で仏の教えを得ることの出来ない状態で救いの少ない世界とされる。他から畜養されるもの、すなわち畜生である。

 

餓鬼道 千手観音

餓鬼道は餓鬼の世界です。餓鬼は腹が膨れた姿の鬼で、食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされる。他人を慮らなかったために餓鬼になった例がある。旧暦7月15日の施餓鬼はこの餓鬼を救うために行われます。

 

地獄道 聖観音

その名の通り、誰もが知ってる地獄の事で、地獄道は罪を償わせるための世界です。

 

煩悩(ぼんのう)

煩悩とは仏教の教義のひとつで、心身を乱し悩ませ知恵を妨げる心の働き・心の汚れをいいます。

除夜の鐘が108回なのは煩悩の原因が108個あるからとされています。

真正仏教では、人の苦の原因を自らの煩悩と捉え、その縁起を把握・克服する解脱・涅槃(ねはん)への道が求められました。部派仏教の時代になると、煩悩の深い分析が行われました。

大乗仏教でも此の分析は続けられ、特に唯識が示した心と煩悩の精緻(せいち)な探求は大乗仏教を観念論へと導く端緒(たんしょ)でもあった。それにより此の時代には、煩悩を否定しないという真正の仏教には無かった発想も生じてきた(如来蔵)。この両者の思想はその後の大乗仏教に深く影響を与えました。

 

如来蔵思想

如来蔵思想では、煩悩とは本来清浄な人間の心に偶発的に付着したものであると説きます(客塵煩悩)。

此の煩悩を知恵によって断滅し、衆生が本来もっている仏性を明らかにすること、すなわち煩悩の束縛を脱して知恵を得ることが、大乗仏教の求める悟りに他ならないのです。

菩薩の四弘誓願(しぐぜいがん)に「煩悩無量誓願断」が立てられているのは、煩悩を断ずる事が大乗仏教の基本思想であることを示します。

人間は所詮、煩悩から逃れられぬという所に観念し、煩悩を在るがままの姿として捉え、そこに悟りを見出だそうとする煩悩即菩提の考えが、次第に大乗仏教の中で大きな思想的位置を占めるようになりました。

 

仏性

仏性とは、仏の性質・本性のことで、主に『涅槃経』で説かれる大乗仏教独特の教理です。仏教では、この仏性を開発し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされます。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされています。

 

三因仏性

正因仏性(しょういんぶっしょう) - 本性としてもとから具わっている仏性のこと
了因仏性(りょういんぶっしょう) - 仏性を照らし出す智慧や、その智慧によって 発露(ほつろ)した仏性のこと
縁因仏性(えんいんぶっしょう) - 智慧として発露するための縁となる善なる行いのこと

 

四弘誓願

菩薩が一切衆生を救済するという願いと誓いを立て、願いが叶うまでは自分が涅槃には赴かないとする。大乗仏教徒によって強調されました。また阿弥陀仏の本願も誓願と同じです。

 

四弘誓願とは、菩薩が仏道を求めるとき、最初に立てる四つの誓願のことです。菩薩が普遍的に追求すべきものであるとされているため、全ての菩薩の共通の誓願である。上求菩提・下化衆生(上の如来に菩提を求め・下の衆生を化益する)の願は、この四弘誓願をもって要制するといいます。

 

衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど) - 地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するという誓願


煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん) - 煩悩は無量だが、すべて断つという誓願


法門無尽誓願智(ほうもんむじんせいがんち) - 法門は無尽だが、すべて知るという誓願


仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう) - 仏の道は無上だが、かならず成仏するという誓願


日本仏教の殆どの宗派の在家檀信徒が日常読経すべきものとされています。なお、煩悩無量誓願断を煩悩無尽誓願断、法門無尽誓願智を法門無量誓願学とするなど、宗派によって多少の語句の違いがあります。

 

未度の者を度せしめん いまだ済度せざる者を済度せしめんとす
未解の者を解せしめん いまだ理解せざる者を理解せしめんとす
未安の者を安ぜしめん いまだ安心せざる者を安心せしめんとす
未涅槃の者を涅槃せしめん いまだ涅槃せざる者を涅槃せしめんとす

 

ただし、禅系の三宗(曹洞宗臨済宗黄檗宗)では、台詞は以下の通り。

衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)
法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)

 

 

 

菩薩(ぼさつ)

仏教に於いて一般的に成仏を求める修行者を指します。

高僧などで、仏(如来)になれるが、人の救済などのために敢えて仏になろうとしない僧侶の事です。

菩薩の意味の広義化は寧ろ大乗仏教で盛んであり、時代が下るに伴って波羅蜜行に至らない修行者や、遂には在家信者も含めて衆生皆菩薩とする説が唱えられ、経論によって所説が種々不同になった。菩薩の意味の広義化に伴って、本来は菩薩乗とすべき表現を「大乗」に置き替える教説が現れ、大乗という語の意味も混乱した。此れは仏乗と表現せず如来乗を摂る教説と相まって、大乗仏教の分かりづらさの原因のひとつとなりました。

 

修行者としての菩薩

初期から、悟りを開く前の修行時代の仏陀のことを菩薩と呼んでいました。さらに釈迦の前生物語である本生話(ジャータカ)では、釈迦の前生の姿も菩薩と呼んでいました。

此の菩薩の代表として創造されたのが、次に成仏すると伝えられる弥勒菩薩です。

弥勒菩薩は56億7千万年の修行を経て、この世に弥勒仏として現れるとされます。後に阿弥陀仏となった法蔵菩薩などもこの代表的事例です。

 

現世で活動する為の菩薩

既に悟りを得ているにも関わらず、成仏を否定した菩薩も創造されました。此れは仏陀自身の活動に制約があると考えられた為で、いわば仏陀の手足となって活動する者を菩薩と呼ぶ。

この代表者が、釈迦三尊の文殊菩薩普賢菩薩です。彼らは、釈迦の働きを象徴するだけでなく、働きそのものとして活動するのです。他にも、観世音菩薩、勢至菩薩なども、自らの成仏とは関わりなく、活動を続ける菩薩です。

 

大乗僧としての菩薩

中国では、インドの有様が詳細に伝わったわけではないので、事に初期大乗仏教の学僧たちを菩薩と尊称した。龍樹菩薩、世親菩薩などとするのが是である。

注意が必要とされるのは、弥勒菩薩である。創造された一生補処(あと一回の生で仏を補う処にある)の菩薩としての弥勒菩薩と瑜伽師地論を編纂したと伝えられる弥勒(仮託説もある)とがいます。

 

観音菩薩

仏教の菩薩の一尊で、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)または観自在菩薩(かんじざいぼさつ)ともいいます。

『観音経』などに基づいて広く信仰・礼拝の対象となっています。

『般若心経』の冒頭に登場する菩薩でもあり、般若の智慧の象徴ともなっています。浄土教では『観無量寿経』の説くところにより阿弥陀如来の脇侍として勢至菩薩と共に安置されることも多く、観音菩薩は大慈大悲を本誓とします。中国では六朝時代から霊験記『観世音応験記』が遺され、日本では飛鳥時代から造像例があり、現世利益と結びつけられて、時代・地域を問わず広く信仰されています。

また、チベット仏教では化身ラマダライ・ラマ観音菩薩と位置付けられています。

 

観音経では、「衆生、困厄を被りて、無量の苦、身に逼(せま)らんに、観音の妙智の力は、能く世間の苦を救う。(観音は)神通力を具足し、広く智の方便を修して、十方の諸(もろもろ)の国土に。刹として身を現ぜざることなし。種々の諸の悪趣。地獄・鬼・畜生。生・老・病・死の苦は、以て漸く悉く滅せしむ。」とあるように、観音の慈悲が広く、優れた現世利益を持つことを述べている点が共通しています。

 

普門示現

観音が世を救済するに、広く衆生の機根(性格や仏の教えを聞ける器)に応じて、種々の形体を現じる。これを観音の普門示現(ふもんじげん)という。法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には、観世音菩薩は普く衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞(しょうもん)身」「梵王身」など、33の姿に変身すると説かれています。

詳細は、観音菩薩 - Wikipedia を参照してください。

 

六観音

真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音如意輪観音准胝観音六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とされます。六観音は六道輪廻(ろくどうりんね、凡ゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので、地獄道 - 聖観音、餓鬼道 - 千手観音、畜生道 - 馬頭観音修羅道 - 十一面観音、人道 - 准胝観音、天道 - 如意輪観音という組み合わせになっています。

 

如来

仏教で釈迦を指す名称(十号)のひとつ。あるいは、大乗仏教における諸仏(仏様)の尊称。

古代インド当時の諸宗教全般で「修行完成者」つまり「悟りを開き、真理に達した者」を意味します。

 

真身如来

「如」は「真如」。真如の道に乗じ、因より果に来たって、正覚を成ずるから「如来」と名づける。

如来とは、如実の道に乗じ、来たりて正覚を成ずるが故に、如来という。(『成実論』1)
如実より来る。故に如来と名づく。…涅槃を如と名づけ、知解を来と名づく。正しく涅槃を覚するが故に如来と名づく。『転法輪経憂波提舎』
如実の道より来る。故に名づけて如来と為す。『大智度論』 24

 

応身如来

真如の道に乗じ、三界に来たって化を垂れるゆえに「如来」と名づける。応身如来

如来というは如を体し、しこうして来たる。故に如来と名づく。
問うていう。如を体ししこうして来るが故に如来と名づくとは、是れ応身なるや。来の義あるべし。真如法身、いかんが来あるや。

答えていう。本陰、今顕すが如く、また来と称するを得。(勝鬘宝窟上末) 諸仏のごとくにして来るゆえに「如来」と名づける。二身、三身に通じる。

つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。(『教行信証』「証巻」 聖典註釈版 p.307)

 

阿弥陀如来

浄土真宗に於いては、阿弥陀如来一仏を本尊とする。中心教義も阿弥陀如来の本願力にのみ帰依することとする(他力本願)。真宗に於いては、『観無量寿経』の「住立空中尊」という表現から、立像であるべきとされます。

その他の経典に於いても、浄土三部経以外にも阿弥陀如来は多くの大乗経典に登場する。 法華経の薬王菩薩本事品にも阿弥陀如来は登場し、サンスクリット語原文においては法華経の観世音菩薩普門品にも阿弥陀如来について言及されています。 仏説出生菩提心経においても阿弥陀如来の願力が言及されています。 大乗離文字普光明蔵経に於いても、大乗離文字普光明蔵経の持経者が阿弥陀如来の来迎を得ることが説かれています。

 

涅槃(ねはん)ニルヴァーナ、นิพพาน、निब्बान

涅槃とは、仏教の主要な概念の一つであり、ニルヴァーナとも呼ばれ、悟りと同じ意味であるとされます。即ち煩悩のない状態である。

この語のほか、泥曰(ないわつ)、泥洹(ないおん)ともいいます。

涅槃は、「さとり」〔証、悟、覚〕と同じ意味であるとされます。然し、ニルヴァーナの字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、すなわち煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義です。その意味で、滅とか寂滅とか寂静と訳された。また、涅槃は如来の死そのものを指します。涅槃仏などはまさに、死を描写したものです。「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」という意味で涅槃寂静といわれます。

 

釈迦が入滅(死去)してからは、涅槃の語にさまざまな意味付けが行われました。

有余涅槃・無余涅槃とわけるもの(有余とは生前、無余とは死後を意味する)
灰身滅智、身心都滅とするもの
善や浄の極致とするもの
苦がなくなった状態とするもの
など。

 

釈迦が一切を無常・苦・無我であると説いたのは、単に現実を否定したのではなく、かえって現実の中に解決の道があることを自覚したからです。

此の立場で、後に無住処涅槃という。悟りの世界では、無明(迷い)を滅して知恵を得て、凡ゆる束縛を離れて完全な自在を得る。其処では、涅槃を一定の世界として留まることなく、生死と言っても生や死にとらわれて喜んだり悲しんだりするのではなく、全てに思いのままに活動して衆生仏道に導きます。

此の様な涅槃は、単に煩悩の火が吹き消えたというような消極的な世界ではなく、煩悩が転化され、慈悲となって働く積極的な世界です。その転化の根本は知恵の完成で、故に悟りが知恵なのです。

此の点から菩提と涅槃を「二転依の妙果」といいます。涅槃は以上のように、煩悩が煩悩として働かなくなり、煩悩の障りが涅槃の境地に転じ、知恵の障害であったものが転じて慈悲として働く。それを菩提(ぼだい)と呼びます。

以上のように悟りは、涅槃の寂静と菩提の智慧の活動とを内容とします。そこで涅槃の徳を常楽我浄の四徳と説きます。悟りは常住不変で、一切の苦を滅しているので楽、自在で拘束されないから我、煩悩がつきて汚れがないから浄といわれます。

 

菩提(ぼだい)

悟りの一つで「完全なる叡智」、または「極楽往生して成仏すること」を意味します。 

 『大毘盧遮那成仏神変加持経』では「菩提とは実の如く自心を知ること」と説いています。菩提の対義語は煩悩であり、大乗仏教、とくに本覚思想等に於いては「煩悩即菩提」といい、煩悩(迷い)と菩提(悟り)は而二不二(ににふに)といって、二つであってしかも二つではないと説く。

 

菩提心とは、菩提を求める心、道心。天台宗系の宗派の多くではこのときの心とは、一念のことと説いています。

 

菩提心(ほつぼだいしん)とは、菩提を求める心を発すること。本来は菩薩十地の初地を端緒とするもので、法悦体験などから仏法を求めたり、成仏を願う心を発すことを発心として区別します。発心得度の記述は古典文学や日記によくみられます。

 

常楽我浄の四徳

常楽我浄とは、仏教とりわけ大乗仏教で、仏及び涅槃の境涯を表した語です。一般的に涅槃の四徳、または四波羅密と云われています。主に『大般涅槃経』に説かれるが、『勝鬘経』など多くの大乗経典にも登場する語です。

 

無常であるのに常と見て、
苦に満ちているのに楽と考え、
人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、
不浄なものを浄らかだ。

これを四顛倒(してんどう、さかさまな見方)という。 釈迦は成道した直後にまずこの四顛倒をただし、この世は無常・苦・無我・不浄であると説いた。これが諸行無常一切皆苦諸法無我などという仏教用語の基となっています。

 

常 - 仏や涅槃の境涯は、常住で永遠に不滅不変である。
楽 - 仏や涅槃の境涯は、人間の苦を離れたところに真の安楽がある。
我 - 仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある。
浄 - 仏や涅槃の境涯は、煩悩を離れ浄化された清浄な世界である。

 

因果論

仏教は、物事の成立には原因と結果があるという因果論を基本概念に据えています。

生命の行為・行動(体、言葉、心で成す三つの行為)にはその結果である果報が生じるとする業論があり、果報の内容如何により人の行為を善行と悪行に分け(善因善果・悪因悪果)、人々に悪行をなさずに善行を積むことを勧める事。また個々の生に対しては業の積み重ねによる果報である次の生、すなわち輪廻転生を論じ、世間の生き方を脱して涅槃を証さない(悟りを開かない)限り、凡ゆる生命は無限にこの輪廻を続けると言われています。

輪廻・転生および解脱の思想はインド由来の宗教や哲学に普遍的にみられる要素ですが、輪廻や解脱を因果論に基づいて再編したことが仏教の特徴です。

人の世は苦しみに満ち溢れています。そして、凡ゆる物事は原因と結果から基づいているので、人々の苦しみにも原因が存在します。従って、苦しみの原因を取り除けば人は苦しみから抜け出すことが出来る。これが仏教における解脱論です。

 

また、仏教に於いては、輪廻の主体となる永遠不滅の魂(アートマン)の存在は「空」の概念によって否定され、輪廻は生命の生存中にも起こるプロセスであると説明されることがある点でも、仏教以前の思想・哲学における輪廻概念とは大きく異なっています。

 

縁起

因果に基づき苦のメカニズムを整理された十二支縁起を示します。【十二因縁】

 

① 無明(現象が無我であることを知らない根源的無知)

過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。


② 行(潜在的形成力)

志向作用。物事がそのようになる力=業


③ 識(識別作用)

識別作用=好き嫌い、選別、差別の元


④ 名色(心身)

物質現象(肉体)と精神現象(心)。実際の形と、その名前


⑤ 六処(六感覚器官)

六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意


⑥ 触(接触)

六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。


⑦ 受(感受作用)

感受作用。六処、触による感受。


⑧ 愛(渇愛)愛を欲する事。


⑨ 取(執着)執着する事。


⑩ 有(存在)存在と生存権


11 生(出生)自分が産まれる事。


12 老死(老いと死)年老いて死ぬ事。

 

【以下5月6日追記】

仏教に於ける縁起とは、仏教の根幹をなす発想の一つで、「原因に縁って結果が起きる」という因果論を指します。

開祖である釈迦は、「此の煩悩があれば彼に苦があり、此の煩悩がなければ彼は苦がない、此の煩悩が生ずれば彼に苦が生じ、此の煩悩が滅すれば彼の苦を滅す」という、煩悩と苦の認知的・心理的な因果関係としての此縁性縁起(しえんしょうえんぎ)を説いたが、部派仏教大乗仏教へと変遷して行くに伴い、その解釈が拡大・多様化・複雑化して行き、様々な縁起説が唱えられるようになりました。

 

これは上記したように、煩悩と苦の因果関係としての此縁性縁起(しえんしょうえんぎ)であり、それをより明確に説明するために、十二因縁(十二支縁起)や四諦・八正道等も併せて述べられています。

部派仏教の時代になると、膨大なアビダルマ(論書)を伴う分析的教学の発達に伴い、衆生(有情、生物)の惑業苦・輪廻の連関を説く業感縁起(ごうかんえんぎ)や、現象・事物の生成変化である有為法(ういほう)としての縁起説が発達しました。

 

大乗仏教に於いては、中観派の祖である龍樹によって、説一切有部等による「縁起の法」の形式化・固定化を牽制する格好で、徹底した相互依存性を説く相依性縁起(そうえしょうえんぎ)が生み出される一方、中期以降は、唯識派の教学が加わりつつ、再び衆生(有情、生物)の内部(すなわち、「仏性・如来蔵」「阿頼耶識・種子」の類)に原因を求める縁起説が発達していく。7世紀に入り密教(金剛乗)の段階になると、曼荼羅(まんだら)に象徴されるように、多様化・複雑化した教学や諸如来・菩薩を、宇宙本体としての大日如来を中心に据える形で再編し、個別性と全体性の調和がはかられていきました。 

 

此の此縁性縁起(しえんしょうえんぎ)の命題は、「彼」が「此」によって生じていることを示しており、この独特の言い回しは、修辞学的な装飾や、文学的な表現ではなく、前後の小命題が論理的に結び付けられていて、「此があれば彼があり」の証明・確認が、続く「此がなければ彼がない」によって、「此が生ずれば彼が生じ」の証明・確認が、「此が滅すれば彼が滅す」によって、それぞれ成される格好になっています。

既述の通り、この「此」と「彼」とは、煩悩と苦を指しており、その因果関係は、十二因縁等や四諦としても表現されています。

また、この因果関係に則り、煩悩を発見し滅することで苦を滅する実践法(道諦)として、八正道や戒・定・慧の三学等が、説かれています。

また、上記した人間の内面、心理的・認知的側面に焦点を当てた此縁性の他に、

 

『凡そ生ずる性質のものは、全て滅する性質のものである』

『此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す』

 

といった、後に部派仏教で(「不相応行法」を含む)有為法として分析対象となったり、大乗仏教諸行無常の拡張的な意味として理解されるような、より広い意味での縁起も、初転法輪から『大般涅槃経』に至るまで、繰り返し述べられていることも、覚えておく必要があります。

 

 【5月7日追加】

四諦

四諦(したい)、または四聖諦とは仏教用語で、釈迦が悟りに至る道筋を説明するために、現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた4つの真理である苦・集・滅・道のことで、此縁性を実践的観点から言い換えたものです。

 

4つの諦、これらは苦集滅道と略称されます。

苦諦(くたい) - 一切は苦であるという真理
集諦(じったい) - 苦には原因があるという真理
滅諦(めったい) - 苦は滅するという真理
道諦(どうたい) - 苦を滅する道があるという真理

 

釈迦は悟りを得た後、ヴァーラーナスィーの鹿野苑に於いて、初めて五比丘のために法を説いた(初転法輪)。この時、四諦を説いたと言われています。根本説一切有部説一切有部系は、四諦を四沙門果と同義に捉えています。

パーリ語経典は、釈迦はこの四諦のそれぞれを示・勧・証(知る・実践する・確認する)の三転から考察し(三転十二行相)、如実知見を得たので、神々と人間を含む衆生の中で「最上の正しい目覚め」に到達したと宣言するに至ったとの事です。

 

釈迦は初転法輪に於いて、先ず迷いの現実が苦である事と、その苦は克服しうるものであることを明らかにしました。しかも、苦は単に苦として外にあるのでなく、我々がそれをどう受け取るのかで変わってくることを説いて、煩悩こそがすべてを苦と受け取らせる原因である事を明らかにしました。従って、この煩悩を正しく処理すれば、苦に悩まされない境地をうる。その道は、一切の自己愛を捨て、他に同化することにあるので、その根本は自己の本姿に徹することである。つまり、本来、執着すべきでない自己に執着することが、苦の原因である。この苦を滅して涅槃の世界に入る方法が「仏道」です。

 

苦集滅道、4つの真理を解説します。

 

苦諦とは、

人間にとってはこの世界の一切が苦であるという様態の真相、現実を指す。人生が苦であるということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿とされる。このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説く。

四苦とは、根本的な四つの思うがままにならないこと、生・老・病・死です。これらに、下の四つの苦を加えて八苦といいます。

愛別離苦(あいべつりく) - 愛する対象と別れること
怨憎会苦(おんぞうえく) - 憎む対象に出会うこと
求不得苦(ぐふとっく) - 求めても得られないこと
五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(身体・感覚・概念・決心・記憶)に執着すること

非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句の四苦八苦はここから来ています。

 

集諦・または苦集諦とは、

苦が様々な悪因を集起させたことによって表れたものです。つまり「苦には原因がある」という真理のこと。 集諦とは「苦の源」、苦が表れる素となる煩悩をいうので、苦集諦ともいわれます。集(じつ)とは、招き集める意味で、苦を招き集めるものは煩悩であるとされます。

此処での集の意味は「起源」「原因」「招集」の、何れとも解釈できます。

苦集諦とは「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としています。具体的には貪欲や瞋恚(しんに)、愚痴などの心の穢れをいい、その根本である渇愛(かつあい)をいう。これらは欲望を求めてやまない衝動的感情をいいます。

仏教に於いて苦の原因の構造を示して表しているのは、十二縁起です。十二縁起とは、苦の12の原因とその縁を示しています。苦は12の原因のシステムであって、12個集まってそれ全体が苦なのである。だから、無明も渇愛も、苦の根本原因であり、苦集諦です。

 

滅諦とは、

「苦は滅する」という真理。

 

道諦とは、

「苦を滅する方法・実践修行がある」という真理。これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道です。その七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程が八正道です。

 

瞋恚(しんに)

瞋恚とは仏教が教える煩悩のひとつで、我(自分)に背くことがあれば必ず怒るような心です。仏教で人間の諸悪・苦しみの根源と考えられている三毒、三不善根のひとつ。また、瞑想修行を邪魔する5つの煩悩、五蓋のうちの2番目の煩悩です。


瞋恚を断つ方法としては、パーリ仏典(Pali Canon)中部(Majjhima Nikāya)の62番目の経典である大ラーフラ教誡経(Mahārā­hu­lovāda­sutta)に例が示されている。この中で、釈迦は息子の羅睺羅(ラーフラ)に以下のように説いています。

『慈悲の瞑想を深めれば、ラーフラ、どんな瞋恚も消えてしまうからです。』

 

三毒

三毒とは、仏教に於いて克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩、すなわち貪・瞋・癡(とん・じん・ち)を指し、煩悩を毒に例えたものです。

三毒は人間の諸悪・苦しみの根源とされています。ブッダの説いた根本仏教大乗仏教を通じて広く知られている概念です。例えば、最古の経典と推定される南伝パーリ語のスッタニパータに、貪・瞋・癡を克服すべきことが述べられている。更に中部経典(マッジマ・ニカーヤ majjhima nikāya)においては「三不善根」(skt:akuśala-mūla, pali:akusala-mūla)として記され、3つがまとめて論じられています。三毒(三不善根)は悪の根源であり、それが展開されて十悪となります。

 

大乗仏教でも妙法蓮華経譬喩品第三の、いわゆる「三車火宅のたとえ」に「ブッダは、衆生の生老病死、憂い、悲しみ、苦悩、無知、混乱や三毒から解放する為に三界に姿を現したのだ」と説かれ、三毒などの煩悩を家についた火に喩えている他、般若経華厳経にも記載があります。

存覚が「貪欲を生じ瞋恚(怒り)をおこすことも、その源をいえば、みな愚痴(愚かさ)よりいでたり」と述べるように、三毒の根源は癡(愚かさ)であるとされます。

なお、別に三惑ともいうが、後世の天台宗学における三惑(無明惑・見思惑・塵沙惑)を指して呼称するようになったので、現在は三毒と呼称するのが常となっています。

『大乗義章』五に「三毒通じて三界の一切煩悩を摂し、一切煩悩は能(よ)く衆生を毒すること、それ毒蛇の如く、また毒龍の如し(三毒は三界の一切の煩悩を包んでいる。一切の煩悩が人々を毒するのは、毒ヘビや毒龍のようなものだ)」とある。また『法界次第初門』巻上には「毒は鴆毒を以て義とす。(中略)出世の善心を壊すを以ての故に(三毒の毒とは鴆毒すなわち毒薬の意味で、解脱しようとする善の心を壊してしまうからだ)」と書いてあります。

 

三毒を構成する煩悩

 

貪 貪欲(とんよく)ともいう。むさぼり(必要以上に)求める心。一般的な用語では「欲」・「ものおしみ」・「むさぼり」と表現する。(豚)

 

瞋 瞋恚(しんに)ともいう。怒りの心。「いかり」・「にくい」と表現する。(蛇)

 

癡 愚癡(ぐち)ともいう。真理に対する無知の心。「おろか」と表現する。 (鶏)

 

三毒を懺悔する経文として懺悔偈があり、真言宗禅宗などでは読経の前に、浄土宗では読経の中で必ず唱えることになっています。

 

【5月8日追加】

五蓋(ごがい)

五蓋とは、仏教に於ける瞑想修行を邪魔する、5つの障害、つまり5つの煩悩の総称です。

蓋とは文字通り認識を覆う障害の事です。

なお、これと似た概念として、生存者を欲界へと結び付ける5つの束縛としての五下分結という概念もあります。下分(げぶん)とは、下の領域すなわち欲界のこと。結とは束縛の事です。

 

貪欲 - 渇望・欲望。

瞋恚 - 怒り・憎しみ。

惛沈(こんちん)・睡眠 - 倦怠・眠気。

掉挙(じょうこ)・悪作(おさ)- 心の浮動、心が落ち着かないこと・後悔。

疑 - 疑い。

 

『沙門果経』という経典では、出家者が戒律を収めた後、初禅に入る前の段階として、この五蓋の除去が言及されます。この五蓋が取り除かれることで、その人には歓喜・喜悦、身体の軽安(きょうあん)・安楽・三昧が生じ、初禅へと入っていく準備が整うと述べられています。

 

【5月13日追加】

波羅蜜(はらみつ)

波羅蜜とは、パーリ語サンスクリット語で完全であること・最高であることを意味する語で、仏教に於ける各修行で完遂・獲得・達成されるべきものを指します。

般若経』では般若波羅蜜(般若波羅蜜多)ほか全6種(六波羅蜜)を、あるいは『華厳経』などではこれに4種を加え10種(十波羅蜜)を数える。

 

六波羅

六波羅蜜とは、ブッダになりうる資質を獲得するために実践する六つの項目のことです。

 

布施波羅蜜 - 檀那(だんな、Dāna ダーナ)は、分け与えること。dānaという単語は英語のdonation、givingに相当する。具体的には、財施喜捨を行なう)・無畏施・法施(仏法について教える)などの布施である。檀と略す場合もある。


持戒波羅蜜 - 尸羅(しら、Śīla シーラ)は、戒律を守ること。在家の場合は五戒(もしくは八戒)を、出家の場合は律に規定された禁戒を守ることを指す。


忍辱波羅蜜 - 羼提(せんだい、Kṣānti クシャーンティ)は、耐え忍ぶこと。


精進波羅蜜 - 毘梨耶(びりや、Vīrya ヴィーリヤ)は、努力すること。


禅定波羅蜜 - 禅那(ぜんな、Dhyāna ディヤーナ)は、特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること。


智慧波羅蜜 - 般若(はんにゃ、Prajñā プラジュニャー)は、諸法に通達する智と断惑証理する慧。前五波羅蜜は、この般若波羅蜜を成就するための手段であるとともに、般若波羅蜜による調御によって成就される。

 

八正道

八正道は、釈迦が最初の説法において説いたとされます、涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳です。八聖道(八聖道分)、八支正道、もしくは八聖道支とも。この 「道」が偏蛇を離れているので正道といい、聖者の道であるから「聖道」といいます。

 

正見

正見とは、仏道修行によって得られる仏の智慧であり、様々な正見があるが、根本となるのは四諦の真理などを正しく知ることです。

業自性正見(ごうじしょうけん)- 業を自己とする正見。

生きとし生けるもの(巴: sattā)は、
業を自己の所有とする(巴: kammassakā)
業を相続する(巴: kammadāyādā)
業を(輪廻的生存の)起原、原因とする(巴: kammayonī)
業を親族とする(巴: kammabandhū)
業を依り所とする(巴: kammapaṭisaraṇā)

 

十事正見(巴: dasavatthukā sammā-diṭṭhi)


布施の果報はある(巴: atthi dinnaṃ)
大規模な献供に果報はある(巴: atthi yiṭṭhaṃ)
小規模な献供に果報はある(巴: atthi hutaṃ)
善悪の行為に果報がある(巴: atthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko)
(善悪の業の対象としての)母は存在する(母を敬う行為に良い結果があるなど)(巴: atthi mātā)
(善悪の業の対象としての)父は存在する(父を敬う行為に良い結果があるなど)(巴: atthi pitā)
化生によって生まれる衆生は存在する(巴: atthi sattā opapātikā)
現世は存在する(巴: atthi ayaṃ loko)
来世は存在する(巴: atthi paro loko)
此の世に於いて、正しい道を歩み、自らの智慧によって今世と他世を悟り、(それを他者に)説く沙門、バラモン、正行者は存在する。(巴: atthi loke samaṇabrāhmaṇā sammaggatā sammāpaṭipannā ye imañca lokaṃ parañca lokaṃ sayaṃ abhiññā sacchikatvā pavedenti)

 

四諦正見(巴: catusaccā sammā-diṭṭhi)
苦諦についての智慧(巴: dukkhe ñāṇaṃ)
苦集諦についての智慧(巴: dukkha-samudaye ñāṇaṃ)
苦滅諦についての智慧(巴: dukkha-nirodhe ñāṇaṃ)
苦滅道諦についての智慧(巴: dukkha-nirodhagāminiyā paipadāya ñāṇaṃ)

 

「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれるように、われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である。このように現実を厭うことは、人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが、その世俗性の否定によって、結果として、真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのです。正見は「四諦の智」といわれます。

この正見は、以下の七種の正道によって実現され、 八正道は全て正見に納まります。

 

正思惟(しょうしゆい)

正思惟とは、正しく考え判断することであり、出離(離欲)を思惟し無瞋を思惟し、無害を思惟することです。このうち「出離(離欲)」とはパーリの原文では「nekkhamma」で、世俗的なものから離れることを意味する。財産、名誉、など俗世間で重要視されるものや、感覚器官による快楽を求める「五欲」など、人間の俗世間において渇望するものの否定である。これら3つを思惟することが正思惟です。

出離思惟(巴: nekkhamma saṅkappa)
無瞋思惟(巴: abyāpāda saṅkappa)
無害思惟(巴: avihiṃsā saṅkappa)

 

正語

正語とは、妄語(嘘)を離れ、綺語(無駄話)を離れ、両舌(仲違いさせる言葉)を離れ、悪口(粗暴な言葉)を離れることです。

 

正業

正業とは、殺生を離れ、盗みを離れ、性的行為(特に社会道徳に反する性的関係)を離れることをいう。 この二つは正思惟されたものの実践です。

 

正命

正命とは、殺生などに基づく、道徳に反する職業や仕事はせず、正当ななりわいを持って生活を営むことです。

 

正精進

正精進とは、四正勤(ししょうごん)、すなわち「すでに起こった不善を断ずる」「未来に起こる不善を生こらないようにする」「過去に生じた善の増長」「いまだ生じていない善を生じさせる」という四つの実践について努力することです。

 

正念

四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に今現在の内外の状況に気づいた状態でいることが「正念」です。

 

正定

正定とは、正しい集中力(サマーディ)を完成することです。この「正定」と「正念」によってはじめて、「正見」が得られるのです。

 

 四正勤

断断 - 既に生じた悪を除くように勤める
律儀断 - まだ生じない悪を起こさないように勤める
随護断 - まだ生じない善を起こすように勤める
修断 - 既に生じた善を大きくするように勤める

 

四念処

四念処(しねんじょ、巴: cattāro satipaṭṭhānā, チャッターロー・サティパッターナー)とは、仏教における悟りのための4種の観想法の総称。四念処観(しねんじょかん)、四念住(しねんじゅう)とも言う。三十七道品の中の1つです。

釈迦の初期仏教の時代から、悟りに至るための最も中心的かつ最重要な観想法であり、仏教の主な瞑想である止観の内、観(ヴィパッサナー)の中核を成す観想法です。

 

身念処(身念住) - 身体の不浄を観ずる(不浄観)
受念処(受念住) - 一切の受は苦であると観ずる(一切皆苦
心念処(心念住) - 心の無常を観ずる(諸行無常
法念処(法念住) - 法の無我(いかなる事象も自分に非ず)を観ずる(諸法無我

 

諸行無常

諸行無常(しょぎょうむじょう、パーリ語: सब्बे संखारा अनिच्चा, sabbe saṅkhārā aniccā)とは、仏教用語で、この世の現実存在は全て、姿も本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことです。「諸行」は、此の世の一切の事物と現象を指し(有為法)「無常」とは、一切は常に変化し、不変のものはないという意味。宋代の仏教書『景徳伝灯録』によれば、釈迦牟尼仏が入滅に際し、沙羅双樹の木の下で説いた言葉と伝えられています。

三法印四法印の1つ)

 

仏教の根本思想をなすもので、凡ゆる物は刹那(一瞬=きわめて短い時間)の間にも変化をくり返している。仏法の大網『三法印』の一つで、三法印は、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の3つからなります。涅槃経に「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」とあり、これを諸行無常偈と呼びます。釈迦が前世における雪山童子であった時、この中の後半偈を聞く為に身を羅刹に捨てしなり。これより雪山偈とも言われます。

「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」この半偈は流転門。

「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではありません。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけです。後半偈は還滅門。

 

生滅の法は苦であるとされていますが、生滅するから苦なのではありません。生滅する存在であるにもかかわらず、それを常住なものであると観るから苦が生じるのです。此の点を忘れてはならないとするのが仏教の基本的立場です。
なお涅槃経では、この諸行無常の理念をベースとしつつ、この世にあって、仏こそが常住不変であり、涅槃の世界こそ「常楽我浄」であると説いています。

しばしば空海に帰せられてきた『いろは歌』は、この偈を詠んだものであると言われています。

 

釈迦が「諸行無常」を感じて出家したという記述が、初期の『阿含経』に多く残されています。

なお平家物語の冒頭にも引用されていて、

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらわす」
現代語訳:祇園精舎の鐘の音は「世の中に不変のものはないという風に聞こえる。沙羅双樹の花の色は、栄える者は必ずや衰え滅び、長くは続かないこの世の定理をあらわしている」
また、『いろは歌』にある「いろはにほへとちりぬるを」も諸行無常を意味します。

 

諸法無我

諸法無我(しょほうむが、sarva-dharma-anaatman सर्व धर्म अनात्मन्)とは、仏教の用語の一つであり、三法印四法印の一つであり、釈迦の悟った項目の一つです。

諸行無常といわれるように、一切のものは刻々変化しています。「私」という存在も常に変化する存在である。そういう意味で全ての物には「我」(が)がない(無我)。そして全ての物は繋がり(縁起)の中で存在しています。全ての存在は孤立しているわけではなく、凡ゆる物によって「生かされている」存在であります。

 

神の存在について

有為法だけでなく無為法を含めてすべての存在には主体とも呼べる我がないというのは、他の宗教に言われるような「神」などの絶対者もまた無我であることを意味する。これは絶対者の否定ではなく、神などもまた我々との関係の上にのみ存在することを意味しています。 仏典の中にも神が出てくる場面が多いけれど、絶対者としての神ではなく、縁起によって現れたものと見るべきです。その意味で、仏教は他の宗教と根本的な違いを持っています。

 

仏教に於ける聖人

法然(浄土宗)
親鸞浄土真宗
日蓮日蓮宗
空海真言宗
最澄天台宗

 

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美少女ロボット計画2017 第10章 美少女ロボットと考える人権

美少女ロボット計画

人権は哲学や宗教とも互いに結び付くもので、その事も考えた上で本稿を書いていきます。日本国憲法の第11条と13条から40条、第97条に「基本的人権の尊重」と明記されております。

「ロボットに人権はあるのか?、エロゲーの美少女キャラクターに人権はあるのか?」も同義であり、僕が考えると喩えエロゲー原画家を始めとする製作者様は「私たちのキャラクターを好きでいてくれる事は何よりも嬉しい」との対義は、つまり逆の行為をすることであり、それこそ「私たちのキャラクターを傷付けられる事は何よりも悲しい」に相当します。エロゲーの18禁規制は、あくまで生身の女性(現実の女の子、三次元の女)の人権を守る為だけに過ぎないと思います。

然し生身の人間とは異なるのがクローンの様に幾らでもコピー・複製の量産化が可能な所は如何なのでしょうか?

キャラクターの絵もシナリオも傷つけられても書き直しさえすれば幾らでも蘇らせる事が出来るし、第12章 ロボットは生死の概念を変える、に依れば美少女ロボットが譬え死に相当する傷害を受けたとしても、ロボットは傷つけられたり壊されても修理さえすれば元通りに蘇らせる事が出来ます。

 

結論として美少女ロボットの人権は生身の人間と少し異なる概念ではありますが、ロボットには生身の人間に対する人権を蔑ろにしないよう教育すべきです。

確かに自分やキャラクター著作者がその美少女ロボットを傷つけたり壊されたりするのは酷く悲しい事だと思います。それを護るのが人権の在り方です。

第12章 ロボットは生死の概念を変える、に依れば、自分の魂を移植した美少女ロボットや同じ方法で魂移植(精神転送アップロード)された美少女ロボット同士の人権は、生身の人間のそれと等しいものになるでしょう。

 

"二次元キャラに人権があるって2ちゃんねるより引用"

"22 :法の下の名無し:2006/05/03(水) 08:38:43 id:G4a415rY
二次元に人権なんて無いだろwwキャラに人権が有ったら大変だろ、人権が有ったら中古で売り買いしたら、人身売買だし、破ったり、燃やしたりしたら殺人になっちゃうぞww!しかも印刷所はクローン人間を作ってる事になって国際法に触れる。

24 :一言居士:2006/05/22(月) 23:08:33 id:kinpPGiL
二次元キャラに人権があるって…
思い入れがあるからって、そんなこと言うのは生身の人間をないがしろにしている。
あぶない発想だな。

25 :法の下の名無し:2006/05/30(火) 00:44:41 id:MAN4jmTN
二次元オタが人権を認めず、
二次元ポルノ反対者が人権を認めようとしてる。

なんだか奇妙でおかしいなw "

 

(4月20日追記)

しばしば二次元美少女キャラクターを嫌悪する外野の人間からは、「エロゲー業界の人間に人権はない」と思われがちですが、それによって齎された夢や恩恵、そしてビジネスによる影響力は計り知れないものがあります。

 

日本国憲法第11条 基本的人権の尊重

日本国憲法第12条 人権の歴史的演繹から導かれるその性格、及び保持に必要な国民の責務を謳う。権利や自由は主張し行使しなければ取り消されるのであり、常に公共の福祉の為に、此れを利用する責任を負う。

日本国憲法第13条 個人の尊厳、幸福追求権、公共の福祉

 

日本国憲法第14条 法の下の平等、貴族の禁止、栄典

 

日本国憲法第15条 選挙権

選挙権につきましては美少女ロボットが人間の所有物である限り選挙権はないものとします。但しAIの進歩と共に徐々に権限が与えられ、第12章 ロボットは生死の概念を変えるを克服して生身の人間の魂を精神転送すゆことが可能な時代になれば、

第15章 美少女ロボット計画と政治、第16章 美少女ロボットと考える法律の掟にも美少女ロボットが参入できるようになるでしょう。

 

  日本国憲法第16条 請願権

第15条と同じ流れで、美少女ロボットにも言論の自由、選挙で支持した政党の如何による差別があってはならないものとする。

 

日本国憲法第17条 国家賠償請求権

以上の各条と然りて、美少女ロボット人身に損害を及ぼす場合は認められます。

 

日本国憲法第18条 奴隷的拘束・苦役からの自由

犯罪に因る処罰を除いて、美少女ロボットを奴隷的に扱ってはならない。

 

日本国憲法第19条 思想・良心の自由

精神の自由は、生命・身体の自由と並び、人間の尊厳を支える基本的条件であると同時に民主主義存立の不可欠の前提ともなっています。人間の尊厳を支える基本的条件であり、信教の自由、学問の自由、表現の自由言論の自由とつながるものです。

思想・良心の自由は、それが宗教的信仰として表れるときは信教の自由、科学的真理の探究として表れるときは学問の自由、その外部への伝達として表れるときは表現の自由という形をとり、国際法としては市民的及び政治的権利に関する国際規約(第18条)が思想・良心の自由について定めています。(信教の自由は第20条で詳細を記述)

思想の自由は世界観、人生観、主義、信条など個人を形成する凡ゆる精神作用を含みますが、単なる事実の無知の是非も問われる所が19条の難しい所です。

表現の自由の詳細は第21条で記述されますが、内心における精神活動がいくら自由でも、その外部への表明の自由がなければ殆ど意味を成さないから、外に向かって表明する自由が要請されます。

 

思想・良心の自由の保証

 特定の思想の強制の禁止
国が特定の思想を強制し勧奨することは憲法19条によって禁じらています。

 

思想を理由とする不利益取扱いの禁止
国が特定の思想を有することまたは有しないことを理由に刑罰その他の不利益を加えることは憲法19条によって禁じられています。また、思想を理由とする差別は憲法14条にも違反します。

 

日本国憲法第20条 信教の自由と政教分離原則について

 

日本国憲法第21条 日本国憲法第3章の条文の1つであり、集会の自由・結社の自由・表現の自由、検閲の禁止、通信の秘密について規定しています。

 

日本国憲法第22条 居住移転の自由、職業選択の自由、外国移住、国籍離脱の自由

 

日本国憲法第23条 学問の自由

一般に個人として学問を究めることを妨害されないという基本的意義のほかに、その自由を担保するための制度的保障として大学の自治、教授の自由、義務教育などを含めた広い意味での教育の自由、教育権の所在などが派生的に本条からの問題として主張されるべきである。

 

日本国憲法第24条 家庭生活に於ける個人の尊厳と両性の本質的平等

婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 

日本国憲法第25条  生存権

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 

日本国憲法第26条 教育を受ける権利

国民の教育に関する権利を規定するものであり、第1項は、いわゆる教育を受ける権利について保障し、第2項では、教育を受けさせる義務および義務教育の無償について規定している。第2項は「教育を受けさせる義務」とよばれ、国民の三大義務のひとつとされています。

 

教育を受ける権利の中心は、子供の学習権の保障です。そのため、「一個の人間として、また、一市民として、成長、発育し、自己の人格を完成、実現させるために必要な学習をする権利を有すること、特に、自ら学習することができない子供は、その学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利」が保障されており、保護者に対する義務が第一義的な義務の内容となります。

 

日本国憲法第27条 勤労権

すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。
賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
児童は、これを酷使してはならない。

 

日本国憲法第28条 団結権・団体交渉権・団体行動権

団結権
労働組合を結成する権利。労使関係において立場の弱い労働者が、団結することで自分たちに有利な労働条件を確保すること。

 

団体交渉権

労働者が団結して使用者と交渉し、労働協約を締結できるようにする。なお、文言上は団体交渉は団体行動の一例として掲げられているものと読めるが、解釈上は、団体交渉権と団体行動権は別のものと考えられている。さらに、文言が「勤労者」となっているため、労使関係にあるか無いかに関わらずその他の働き方に対しても、利害関係のある者との間に団体交渉権が保障されるべきとの見解が、委託・請負・フランチャイズ契約で働く勤労者およびそれらを支援する有識者の間に広がっています。

 

団体行動権
ストライキなどの争議行為をすることです。この団体行動権は団体交渉権の裏付けにもなるものである。ただし、これが発動されることによって多くの国民が不利益を被るような職種の場合、公共の福祉の観点から団体行動権が法律で制限される場合もある。なお、条文上は「団体交渉その他の団体行動をする権利」とあり、(別個のものを列挙する際に用いる)「その他」ではなく(それ以前に示したものが例示であることを示す)「その他の」であることから、団体交渉権は団体行動権の一種とも読めるが、一般に、団体交渉権と団体行動権は別個のものとして理解されている。

 

そもそもロボットがストライキなどする訳が皆無だから本項とは無縁だと思います。 

 

日本国憲法第29条 財産権

財産権の内容は、公共の福祉に適合するように、法律でこれを定める。
私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる。

 

美少女ロボットが人間の所有物である限り適用されませんが、サイボーグ化した人間の魂を移植された美少女ロボットが日本国憲法第27条の勤労権を会得した場合は一定の財産権が保証されます。

 

日本国憲法第31条 適正手続の保障

法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。

憲法31条は刑事手続限定されるとし、それ以外の手続きは憲法13条により適正さが要求されるという見解がある。

 

日本国憲法の規定は一般に、私人間の法律行為に直接は適用されないとするのが通例であり、本条も直接適用があるのは行政機関その他の公的機関に限られる。もっとも、いわゆる私人間効力の議論(間接適用説)に見られるように、憲法に規定された趣旨は、公的機関以外の主体に対しても、b:民法第90条(公序良俗違反)、b:民法第709条(不法行為)、労働基準法19条(解雇権濫用法理)などの私法上の一般条項の解釈において、考慮される一要素となる。裏返せば、十分条件として、公的機関に求められる手続と同程度の手続を私人が履践した場合には、十分に適正な手続が踏まれたものと評価しうることとなる。

 

日本国憲法32条 裁判を受ける権利

何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。

 

美少女ロボットが人間の所有物である限り適用されませんが、サイボーグ化した人間の魂を移植された美少女ロボットの場合は適用されます。

 

日本国憲法第33条 令状主義 

逮捕状による逮捕の原則について規定するものであるが、美少女ロボットは犯罪を犯すようにはプログラムされない為に現状の計画では無意味ですが、サイボーグ化した人間の魂を移植された美少女ロボットの場合は適用されます。

 

日本国憲法第34条  不当な抑留・拘禁からの自由

何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。

此れも第33条と然りです。

 

日本国憲法第35条  住居の不可侵

何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第33条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。
捜索又は押収は、権限を有する司法官憲が発する各別の令状により、これを行ふ。

此れも第33条と然りです。

 

日本国憲法第36条 拷問・残虐刑の禁止

公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。

 

文面上は、公務員による拷問についてのみ禁じているが、通常の拷問の定義からすれば、刑法との関係で私人による拷問が認められることとはならない。

死刑はまさに究極の刑罰であり、また冷厳ではあるが、刑罰としての死刑そのものが直ちに同条における、いわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられない 。ただ、死刑といえども他の刑罰の場合におけるのと同様に、その執行の方法などがその時代と環境とにおいて、人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には、もちろん残虐な刑罰といわねばならぬから、将来、もし死刑について火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの如き残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそまさに日本国憲法第36条に違反するものというべきである。(最高裁大法廷判決昭和23年3月12日)

 

人間の所有物である美少女ロボットに拷問や残虐刑を行なった者は器物損壊罪に問われますが、サイボーグ化した人間の魂を移植された美少女ロボットに其れを行なった場合は殺人罪同等の罪に問われる事が想定されます。

 

日本国憲法第37条 刑事被告人の諸権利

すべて刑事事件に於いては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。
刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する。

此れも第33条と然りです。

 

日本国憲法第38条 自己負罪拒否特権等

何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、此れを証拠とすることができない。
何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。

此れも第33条と然りです。

 

日本国憲法第39条  事後法・遡及処罰の禁止・一事不再理

何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。また、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない。此れも第33条と然りです。

 

日本国憲法第40条 刑事補償請求権

何人も、抑留又は拘禁された後、無罪の裁判を受けたときは、法律の定めるところにより、国にその補償を求めることができる。此れも第33条と然りです。

 

日本国憲法第97条 基本的人権の本質について

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 

(ここまで5月4日完成)