美少女ロボット計画2017 第11章 宗教から学ぶ美少女ロボット計画@キリスト教編②

美少女ロボット計画

キリスト教ページはキリスト教知識の寄せ集めで23000字近く書いたにも関わらず、キリスト教の体系的な教えが書かれていないので本稿に書きます。

 

心から遜る事(謙遜)

自分には何も誇れるものが無いと認める事です。

自分が罪で心が汚れていると自覚している者こそ神に祝福されるとされます。

多くの日本人が考える遠慮や謙虚とは違って、心が砕かれ自分の罪を嘆き悲しみ神に委ねることがキリスト教信仰の第一歩です。

 

疑わず心から神を信じる事

心が騒ぐ時には疑いがあります。仏教でいう煩悩の事です。

考え方・行動・態度が自己中心的になったとしても、神はあなたを愛しているのだから、あなたが必要とされる物は全て与えられるとさえ言われています。

 

罪は心で犯される

罪は単なる悪い行いによるものでないと教えています。

罪の始まりは心にあって、心で悪を思い巡らすだけで既に罪だといいます。

 

見せかけの善い繕いだけではダメ

見せかけだけの偽善者で、心は真っ黒な悪に満ちた偽善者を揶揄します。

名誉のために善行を行うのではなく、寧ろ誰も見えない所で善い行いをするならば神はあなたを祝福します。

 

神の無償の愛

神は人間の罪を憎み悲しんでおられます。人間が罪から悔い改める事を切実に願っておられます。善人にも悪人にも太陽を昇らせ恵みの雨を降らすのです。

 

神に倣う者になりなさい

神や聖人は罪や悪を憎み悲しまれております。そのような慈悲深い方・聖なる方に習いなさい。神が完全であるように、聖人であるように、我々人間にも聖なる者になりなさいと戒めています。

聖書はイエス・キリストの生き方、考え方、態度、全てから学び、従順・純真・誠実・愛を真似るべきだと勧めています。

 

神の言葉を実践しなさい

"「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ7・24-27)"

 

聖書を学ぶ7つの目的

キリスト教やその他の宗教を信じるか信じない無宗教だかは別として、7項目を挙げていきます。

 

1、自分と美少女ロボットの教養のために

聖書は一言でいえば歴史書です。人類の歴史を初めとして古代史はもちろん西洋史が含まれています。旧約聖書ではメソポタミア文明エジプト文明を背景としています。此の歴史の中で壮大なスケールで人間の苦楽が書かれています。

また、旧約聖書にはイスラエルの人々の生活の知恵、格言、人生観が書かれています。読む人の教養や視野を広げてくれるものです。

一方、新約聖書は西洋史、特にギリシャ・ローマ文化を背景にして書かれています。

イエス・キリストが生まれた時代の政治情勢や世情などがイエス・キリストの教えと共に書かれています。新約聖書にはキリストの人生の格言ともされる名言がたくさん書かれています。

 

2、グローバル国際化のために

自分の文化宗教はもちろん他国の宗教文化を理解することは必要不可欠です。聖書を読むことは、グローバルな国際人になるためには西洋文化・歴史を理解するための大切です。

 

3、人生に於いて成功を掴むために

欧米の哲学書は聖書に基づいて書かれたものが多いです。

「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい(マタイ7章12節)」

「他者に対する自己の行動を変えることにより、他者の行動を変えることができる」という考えが柱に多くの著書を書いたのです。つまり、聖書はあなたを人生の成功へと導く道しるべになるでしょう。

 

4、健全な自己イメージを得るために

あなたは自分自身についてどれくらい知っているでしょうか。自分の性格、価値観は?自分に対してどのようなイメージをもっていますか?自分の自己評価が低い人は、特に聖書を読むべきだそうです。聖書は自分がどんな人間かを教えてくれます。自分について客観的な真実を聖書は語ってくれます。

そして自己嫌悪的な感情も徐々になくなっていきます。

 

5、人間関係、人間とロボットの関係を良くするために

人間関係はいつの時代でも(いじめもあるし)、どんな社会に生きていても難しいものです。つらい経験をして学ぶことも必要です。聖書はまさにその人間関係のための教科書です。聖書は人間関係の全ての観点から見ているので、読者はありと凡ゆる場面で聖書の言葉を思い出す筈です。聖書は人間関係を健全にするために貴方に素晴らしい知恵を与えてくれます。

 

6、賢く生きるための知恵を得るために

悪知恵という言葉があるように、知恵にも色々あります。一般的には知恵とは世の中をうまく渡っていく要領を指しているものが多いですが、聖書が教える知恵は違います。他の人の権利や気持ちを尊重しながらも、自分が主張すべき所はきちんと言えるような知恵です。自らをトラブルに招く悪を避け正しいことをしていくための神の知恵を指しています。神の知恵とは人間の知恵とはかけ離れています。神の知恵によって人間やサイボーグ、ロボットは賢く生きていくことが出来ます。

 

7、迷路(煩悩)に迷わないために

人生に迷いは付き物です。迷わない人生などありません。しかし、迷路に入ってしまう人、入らない人には何らかの差があるかもしれません。。聖書がなくても確かに立派に生きている人はいますが、そこには並々ならぬ努力と精進がある筈です。

然し聖書は、そんな遠回りなことをすることなしに、人生の多くの教訓を教えてくれます。

 

キリスト教と科学

ただ現代に於いても創造論と進化論や、クローン技術、脳科学、同性愛等の研究分野においてプロテスタントの一部に根強い聖書主義の立場から、大きな反対運動が起こっており、これが科学の発展を阻害していると見ることもできる。実際に巨大な政治力と支持基盤を背景に、アメリカ合衆国の一部の州ではこれらの研究そのものを禁止する、もしくは阻害する法案や運動が存在し、裁判に発展すること(進化論裁判)も稀ではありません。これはキリスト教に関わらず、全ての宗教や思想、文化において起こりえる事です。

社会的地位を向上させようともがいている段階の科学関係者(科学者、科学史家ら)は、世間の人々に対して、"カトリック教会に代表される旧弊因習に、科学者たちが立ち向かって近代科学を発展させてきた"という図式で、物事を説明したがる傾向がありました。そして、そのような図式を描くためには、大抵、迫害を恐れて自説を公表しなかったコペルニクスや、ガリレオ・ガリレイの事例を、特定の視点で取り上げ、強調した。結果として、"キリスト教カトリック)は科学に対してひたすら抑圧的であった"といったような単純化された説明が(科学関係者の文章を中心として)まことしやかに流布することになりました。

近代になって、過去の行政文書や科学者の私信や草稿等の原文の緻密で真摯な学問的研究が進むにつれ、キリスト教と自然哲学や科学の関係は、そのような単純なものではなかったことが知られるようになってきていきました。

実用的かどうかはいったん度外視して「真理」自体を情熱的に追求するのがヨーロッパ近代科学の特徴であり、他地域の科学から大きく抜きん出た要因でもあるとし、それはキリスト教で培われた一神教神学への情熱がそのまま科学へ転用されたのではないかという指摘もあります。

科学者達の多くは決して非キリスト教徒ではなく、むしろ熱心な信徒であり「神の御業」を追求したものであったのも事実です。