美少女ロボット計画2017 第11章 宗教から学ぶ美少女ロボット計画@キリスト教編

美少女ロボット計画

美少女ゲームやアニメ作品でもキリスト教の世界観に準じた設定のキャラクターがいるからには、キリスト教の解説は欠かせません。

キリスト教アブラハムの宗教のひとつで、キリスト教徒のことはクリスチャンと呼ばれ、教派は主にカトリックプロテスタント正教会があります。全教派(正教会非カルケドン派カトリック教会・聖公会プロテスタント・アナバプテスト)に共通する教えの源泉は聖書(旧約聖書新約聖書)です。

しかしながら、聖書以外に教えの源泉を認めるかどうかについては教派ごとに違いがあります。

カトリック正教会聖公会・非カルケドンは聖伝を認め、カトリック教会では聖書と聖伝が教えの共通の源泉であるとされ、聖伝は「聖書と同じ謙遜と敬意をもって尊敬されるべきもの」とされます。

聖伝を認める教会の場合、教会の中にある全てのものが聖伝とされるのではない。カトリック教会では使徒たちに由来する聖伝と、神学・おきて・典礼・信心上の「諸伝承」が区別されます。

一方、プロテスタントには、聖伝(伝統・伝承)を認める者と認めない者とがいます。(プロテスタントは様々な教派の総称であり、内実は様々です)

 

三位一体の神

ニカイア・コンスタンティノポリス信条は(使徒信条も)、父、子、聖霊の順に、三位一体について言及しています。キリスト教に於いて、神は一つであり、かつ父・子・聖霊と呼ばれる三つの位格があるとされます。「父・子・聖霊」のうち、「子」が受肉(藉身)して、まことの神・まことの人(神人)となったのが、イエス・キリストであるとされます。

 

聖書

キリスト教聖典(聖書)には、ユダヤ教から受け継いだ旧約聖書と、キリスト教独自の聖典である新約聖書があります。「旧約」、「新約」という名称は、前者が神と人間との間に結ばれた旧来の契約であり、それに対して後者がキリストにより神と新たに結ばれた契約であると見做している事によります。

新約聖書では…

 

福音書:イエスの伝記。全部で4つあり、内容には重複が見られる。

マタイによる福音書

マルコによる福音書

ルカによる福音書

(以上の3つはイエス・キリストの生涯について書かれたもので重複する所が多い)

ヨハネによる福音書

『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』に次ぐ4つの福音書イエス・キリストの言行録)の一つで、ルターは本福音書パウロ書簡を極めて高く評価しており、その影響は現在のプロテスタント各派に及んでいます。

 

共観福音書と呼ばれる他の3つの福音書は、イエスの生涯について多く記され、重複記述が多く見られますが、『ヨハネによる福音書』は重複記述が少なく、イエスの言葉がより多く記述されています。

 

ヨハネによる福音書』は「共観福音書」と呼ばれる他の3つとは内容的に一線を画した内容となっています。この福音書が4つの中で最後に書かれたということに関して研究者たちの意見は一致しています。初代教会以来、伝統的にはこの『ヨハネによる福音書』の筆者は、カトリック教会・正教会等で伝承されてきた聖伝においては、文書中にみえる「イエスの愛しておられた弟子」即ち使徒ヨハネであると伝えられてきました。例えば紀元200年頃の神学者アレクサンドリアのクレメンス, リヨンのエイレナイオスなどがこの文書を使徒ヨハネに帰す。同じく伝統的見解として使徒ヨハネに帰されるヨハネの黙示録の著者に関しては3世紀のアレクサンドリアのディオニシオスや4世紀のエウセビオスによって疑義が提出されたのに対して、古代においては『ヨハネによる福音書』は使徒ヨハネに帰されるのが一般的でした。成立年代に関しては3世紀のヒッポリュトスなどがドミティアヌス治世下(81-96年)と証言する。 ただし、近代以降の高等批評をとなえる聖書研究家たちはこれらの考え方を支持しません。田川建三はこの書は作者ヨハネが自分のかなり特殊な宗教思想を展開した書物であり、イエスを知るための直接の資料にならないと考えました。成立時期については、最古の写本断片が120年頃のものとの鑑定から一世紀末という見解が多数です。

 

ヨハネはイエスの父なる神との関わりについて重点的に説明しています。ヨハネは他の3つの福音書よりも鮮明に神の子たるイエスの姿をうかびあがらせました。ヨハネの書くイエスの姿は父の愛する一人子であり、神の子そのものであった。また、キリストをあがない主として書く、あるいは神の霊である聖霊を助け主(ギリシア語:パラクレートス)として書く、キリスト教の特徴として愛を前面に押し出すなどの諸点によってキリスト教に大きな影響を与えることになりました。

 

 


パウロ書簡:精力的に布教をした弟子であるパウロが各地の教徒に向かって書いたとされる手紙。


公同書簡キリスト教徒一般に向けて信仰のあり方を説いたとされる書簡。


ヨハネの黙示録ユダヤ教でいう黙示文学に属する文書で、終末論についてかかれている。


これらの文書群は、1世紀から2世紀頃にかけて書かれ、4世紀中頃にほぼ現在の形に編纂されたと考えられています。

 

キリスト教哲学

西ヨーロッパ中世ではリベラル・アーツ(自由七科)を統括する学問として哲学は尊重されましたが、キリスト教の秩序のなかでは「哲学は神学の婢(はしため)」(ペトルス・ダミアニ)でした。

11世紀頃より西ヨーロッパではスコラ哲学が興隆し学問的方法論が整備されて、哲学はキリスト教の枠内であるにせよ発展しました。アラビア語から翻訳されてヨーロッパに紹介されたアリストテレス哲学をキリスト教神学に融合させたトマス・アクィナスの業績は有名です。既にイスラム世界で行われていたイスラム教学とアリストテレス哲学の整合性と融合に関する議論に多くその源を求められるとしても、彼が創り上げた壮大な神学大系は余人の追従を許していない。また、普遍概念は実在するのか(実念論)、名前だけなのか(唯名論)を争った普遍論争など、哲学史に残る重要な議論がこの時代に行われていました。

 

パウロ書簡、ローマの信徒への手紙

本書はパウロ本人によって書かれたものであるとみなされている七つの手紙の一つです。

本書の中心テーマはイエス・キリストへの信仰を通して得られる救いです。パウロアブラハムを引き合いに出してキリストによる神の恩寵を強調し,人が義(正しい)と決定させられるのは,信者の側の信仰と結び付いた,神の側のこの恩寵のみによることを力説している。また,ユダヤ人にも異邦人にも,誇ったり自分を他の人よりも高めたりする理由は何もないことに注目させています。

 

救いの保障

5章から8章にかけて、パウロは信じるものは救いの約束を受け、罪と律法のくびきから解放されると論じています。但し、律法や決まり事は自分の行いが悪であり、罪であることに気づかせてくれる、として善いものと見なしている反面、人間にできることは罪の自覚を得ることのみで救済には至らないと結論付けています。
パウロは信仰によって義とされ、信じるものはイエスとともにあり、罪から解放されるという。さらに信じるものは希望をもって喜ぶべきです。また、この約束はすべてのものに開かれているので、全ての人が罪によって神から離れたように、イエスの償いによっては全ての人の罪がゆるされるといわれています。

9章から11章にかけてはパウロは神が選んだイスラエルに対して忠実であられたことに触れ、同じように神は信じるものに忠実であられることを思い起こさせます。パウロは自身もイスラエルの一員であり(11:1)、かつてキリスト者を迫害していたため、イスラエルの民がみなこの真実に気付く事を望んでいる(9:1-5)。パウロは神がかつてイスラエルの民を選んだように、キリストに従うものを新しい民として選ぶといいます。

 

信じる者を変える福音

12章から15章前半では、パウロは福音がいかに人を変えるか、そして変えられた人はどのようにふるまうべきかを述べています。さらにユダヤ教の習慣を固守すると、そうでない人々の間の緊張関係についても述べています。

 

カトリックでの扱い

ルターは救いに必要なものは信仰のみであるとして、救いに於ける人間の行いも重視したカトリック教会を批判しましたが、カトリック教会では『ローマ書』2:5-11にははっきりと人間の行いの重要性も書かれているということを指摘してきました。

 

プロテスタントでの扱い

パウロ神学ともいうべきものが明白に打ち出されており、初期キリスト教思想の根底をつくるものとなりました。ルターは『ローマ書』を「新約聖書中もっとも重要な書簡であり、すべてのキリスト者によって精読されるべきもの」と激賞しています。「ローマ書のあゆみ」という言葉がありますが、それは『ローマ書』にあらわれる語句を追っていくことで人間個人の救いの道が現れるというものである。たとえば…

 

3:23 - 「すべてのものが罪を負い、神の栄光を失った」
6:23a - 「罪の結果は死である」
5;8 - 「しかし神はイエスをとおして永遠の命を与える」
10:9 - 「口でイエスを主であるといい、心で神がイエスを死から復活させたと信じるならあなたは救われる。」
10:13 - 「主の名を呼ぶものは誰でも救われる」

 

ローマ書はプロテスタントの歴史上、最も大きな意味を持った書となりました。

ルターは1515年から1516年にかけてローマ書講義を行ったが、そこからくみ上げた思想が1517年の「95ヶ条の論題」ににじみ出ることになり、宗教改革の口火を切ることにつながりました。1738年には『ローマ書』につけられたルターによる前文を読んでいたジョン・ウェスレーが「不思議と心が温かくなる」回心体験をし、メソジスト運動につながりました。

(ここから翌日)

 

パウロ書簡、コリント信徒への手紙

(中略)第四の部分、結びの部分となる15章と16章は死者の復活についてのパウロの考えが記され、最後の挨拶が述べられています。ともすれば聖人の集まりのようにみなされ、美化されがちな初代教会であっても現実には様々な問題や困難があり、パウロのようなエネルギッシュな人物であっても常に悩みや苦しみがあったことを如実に伝える書簡です。

長い書簡であり、内容も多岐に渡ることから、この書簡がいくつかの書簡の集合体ではないかと考える研究者がいますが、具体的な分割案として多くの研究者が合意できるものはないようです。

 

パウロ書簡、ガラテヤの信徒への手紙

19世紀以降、此の書簡がパウロ本人の手によるものであることを疑うものは少なく、もっともパウロらしい書簡とさえ言われています。

本書簡の中心テーマは異教徒の改宗に関わる問題です。これは本書簡がまだ殆どのキリスト教徒がユダヤ教の出身だったキリスト教の最初期に書かれた事を示し、パウロの存命中に書かれた事も示す。本書に描かれる教会共同体はあくまでごく小規模なものです。

 

『ガラテヤ書』は律法とキリスト教徒の関係について述べています。即ち当時のユダヤ教徒およびユダヤ教出身のキリスト教徒たちが持っていた律法の遵守なしに人間は義化されえないという立場に対する反論の書という性格があります。冒頭部分で、パウロは何故此の手紙が書かれることになったのかという次第について触れています。

第1章で、まずパウロは自らの使徒としての正統性を改めて主張する。第2章から第4章においては律法を重視する人々によって福音の精神が傷つけられていると主張される。第3章ではガラテヤの信徒に対し、イエスを中心とした信仰ないしイエスの信(後述)にしっかりとどまり、聖霊の実りを受けるよう求めています。第4章は其処まで扱った問題の纒めと祝福、5章と6章はキリスト者の自由について述べられています。

『ガラテヤ書』と『ローマ書』は共に「義化が道徳的な行いや儀式によって得られるのでなく、神の恵みによってのみ与えられることの何よりの証であり、イエスを信じるものだけが受けられる神からの贈り物であることを示すものである」(イーストン聖書辞典)といいます。

(ガラテヤ書は急ぎで書かれているような内容であるのに対し、ローマ書は計画的に書かれていたようである)

 

エスの信

『ガラテヤ書』2章16節から4章31節に於いて、パウロユダヤ人の伝統的宗教行為とキリスト教徒の信仰、即ち「律法の行いに拠る」義と「イエス・キリストへの信に拠る」(ディア・ピステオース・イエースゥ・クリストゥ)義を対立させて論じる(2:16)。ギリシア語「ピステオース(主格:ピスティス)・イエースゥ」は、文法上、イエスに対する信(目的的属格)と、イエスの持っていた信(所有的属格)の二つの解釈の可能性を持ちます。

伝統的に、西方キリスト教では(特にプロテスタントでは)この句を前者に解し、キリスト・イエスに対する信者の信が、信者を神と和解させ救済へ導くとするが、正教会には、この句を後者に解し、神人二性をもつイエスの人性に於いて、その生涯全体に現れている神への信が、全人類の救いの根拠であるとする解釈があります。後者の解釈に於いては、その完き人間性において完き信を体現するイエスに、信者は洗礼を経て恩寵のうちに神秘的に体合し(5:27、また4:19-20を参照)、義とされ、救済されると書かれてあります。

 

パウロ書簡、コロサイの信徒への手紙

『コリントの信徒への手紙一』などの他のパウロ書簡と同じように、『コロサイの信徒への手紙』(以下コロサイ書)も対象となった共同体の特定の状況に対する問い合わせにパウロが答えるために書かれています。その主要な問題は誤った教えに関するものです。東方由来の神秘思想や禁欲主義をキリスト教にとりこもうとする人々に対して警告しています。パウロキリスト教にとって必要なものは全てイエスの中にあると述べ、そのあがないの意義を強調する。「新月」と「安息日」(2:16)という表現もユダヤ教由来のものを固守しようとしていた人々がいたことを示唆しています。

 

内容

本書簡は神学的考察と実践的なすすめの二部構成になっています。1章から2章にかけての神学的考察の部分では、霊に於いて頭であるキリストの神性のうちにあって完全なものとなることを妨げているものたちへ警告を行っています。共同体の頭であるキリストのうちに一つでありさえすれば、それ以上のものは何も必要ないと著者はいう。実践的なすすめの部分では信仰生活においてすべきこと、なすべきでないことを解説します。さらに上にあるものを求め(3:1-4)、古い自分に死んで新しい自分を生きること(3:5-14)を示し、ユダヤ教徒でないキリスト教徒としての行き方を提示します。

 

パウロ書簡、テサロニケの信徒への手紙

テモテの報告からパウロはテサロニケの教会が良い状態にあることを喜びつつも、自分の教えが間違って捉えられていることにも気がついた。パウロはこの手紙によってそれらの誤りを正し、聖なるものになることを神が望んでいると重ねて強調しました。

書簡全体を通してパウロは当地のキリスト教徒たちを激励していて、パウロは彼らが信仰に生き、愛深い生活を送っていることを感謝し、彼らの疑問に答えていました。例えばキリスト以前の死者たちがキリストの再臨時に共によみがえることができるのかということであったり。キリストの再臨の時期については、その時期については確言しないものの、彼らの生存中に来るという前提にたって書いていました。

 

第2テサロニケの信徒への手紙では、本来の主題は誤った終末論に惑わされることなく、落ち着いて日常の労働に励むことの大切さを説くことにあったのですが、後にはそこから離れ、中世の終末論や反キリスト像の発展に大きく影響した文書であるとともに、共産主義と親和的なスローガン「働かざる者食うべからず」に結びつくこととなった文書でもあります。

そのテーマは、終末が訪れていると信じて浮き足立つテサロニケの信徒たちに対して、キリストの再臨に至る筋道を示すことで、それがまだ来ていないことを確認するとともに、(いつ来てもよいように備えつつも)落ち着いて日々の労働に励むことの大切さを諭すことにあります。

第一テサロニケ書との重複箇所も少なくないですが、独自性を発揮している「不法の者」に関する描写は、ヨハネの黙示録などとともに後代の反キリストのイメージの発展に影響を及ぼしました。

また、日々の労働の大切さを説いた言葉「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」(口語訳)はキリスト教の労働観に影響を及ぼしただけでなく、20世紀にはレーニンによる改変を経て、「働かざる者食うべからず」という労働を神聖視するスローガンとしてソ連などの共産主義諸国の憲法にも盛り込まれました。これが日本国憲法の勤労の義務に繋がったという説もあります。

 

第2テサロニケ書の第1章1節には、著者としてパウロ、および同行者のシルワノ、テモテの名がありますが、著者問題については、パウロが生前に執筆した真正書簡とする説、パウロの死後に別人が執筆した擬似書簡とする説のほか、パウロの生前にその意を受けて近しい人物が第一テサロニケ書の真意を敷衍したと見る「代筆説」なども考えられます。

以下に書くその内容は、冒頭の挨拶、終末に至る予定の提示、怠惰な生活への戒め、結語といったものですが、節単位で見た場合には、論者によってまとめ方に細かな違いがあります。

 

挨拶

神に感謝する・キリストの来臨と正しい裁き

不法の者についての警告

救いに選ばれた者の生き方

忠告を与えるにあたって、神の助けを祈る

怠惰な生活に対する警告・けじめのない生活を送る人々に対する叱責と忠告

結びの言葉

 

後述するように、第二テサロニケ書には第一テサロニケ書と類似するくだりが多く含まれ、内容的には3分の1ほどが重なるとも、3分の2ほどが第一書を敷衍しているとも言われています。まず、第1章5節から10節に独自の思想が含まれているとする者がおり、其処に含まれた応報の思想にはユダヤ教色が強いとも指摘されています。

次に、キリストの再臨に至るスケジュールを記した第2章1節から12節は第一テサロニケ書には直接重なり合う箇所を持たず、第二テサロニケ書の随所に散りばめられている第一書からの借用表現も、この箇所には見当たりません。この部分がこの書簡の核心とされることがしばしばあります。

 

第一・第二テサロニケ書の比較

 (1:2-3) あなたがたの信仰の働きと、愛の労苦と、わたしたちの主イエス・キリストに対する望みの忍耐とを、わたしたちの父なる神のみまえに、絶えず思い起している。(1:3) 兄弟たちよ。わたしたちは、いつもあなたがたのことを神に感謝せずにはおられない。またそうするのが当然である。それは、あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがたひとりびとりの愛が、お互の間に増し加わっているからである。

 

 (2:12) 御国とその栄光とに召して下さった神のみこころにかなって歩くようにと、勧め、励まし、また、さとしたのである。 (1:5) これは、あなたがたを、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである。その神の国のために、あなたがたも苦しんでいるのである。

 

(3:13) そして、どうか、わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように。(1:7) それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。

 

(3:11-13) どうか、わたしたちの父なる神ご自身と、わたしたちの主イエスとが、あなたがたのところへ行く道を、わたしたちに開いて下さるように。どうか、主が、あなたがた相互の愛とすべての人に対する愛とを、わたしたちがあなたがたを愛する愛と同じように、増し加えて豊かにして下さるように。そして、どうか、わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように。 (2:16-17) どうか、わたしたちの主イエス・キリストご自身と、わたしたちを愛し、恵みをもって永遠の慰めと確かな望みとを賜わるわたしたちの父なる神とが、あなたがたの心を励まし、あなたがたを強めて、すべての良いわざを行い、正しい言葉を語る者として下さるように。

 

(2:9) 兄弟たちよ。あなたがたはわたしたちの労苦と努力とを記憶していることであろう。すなわち、あなたがたのだれにも負担をかけまいと思って、日夜はたらきながら、あなたがたに神の福音を宣べ伝えた。 (3:8) 人からパンをもらって食べることもしなかった。それどころか、あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力して働き続けた。

 

(5:23) どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。 (3:16) どうか、平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和を与えて下さるように。主があなたがた一同と共におられるように。

 

(5:28) わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。(3:18) どうか、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように。

 

終末観

第二テサロニケ書第2章1節から12節に示されているのは、そこに描かれた出来事が起こるまでは終末が訪れることはないとする考え方であります。その中の「背教」のくだりにはダニエル書、外典・偽典の第一エノク書、第四エズラ書などの関連を指摘されるなど、各種黙示文学からの影響が指摘されています。

 

パウロ書簡、テモテへの手紙

本書はテモテなる人物に対しての教会での儀式のやり方や教会の組織、共同体の責任者となる「監督」(Episcopi、司教の語源)や「奉仕者」(Diaconi、助祭の語源)に関するすすめが中心となっています。それだけでなく、誤りのない正しい信仰を保つことへの励ましと偽教師への警告も記されています。

パウロはテモテに対し、冬になる前にマルコとともに自分を助けに来てくれるよう求めていました。自らが「世を去る時が近づきました」(4:6)と考えているパウロは「愛する子テモテ」(1:2)に対して熱意と不動の信仰によって誤った教えに立ち向かうよう求めている。そのために必要なことは過去に受けた教えに立ち戻ること、迫害の下での忍耐、信仰上のつとめを果たすこと、裁きのときに備えることなどが述べられていました。

 

テモテ書

"聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。(2テモテ3章16節ー17節)"

 

パウロ書簡、テトスへの手紙

パウロからクレタに残された彼の弟子であるテトス(『第2コリント書』 8:23)へ宛てた形をとる。 内容は、クレタにおいて長老と監督者を立ててもらうための依頼とその基準の教示、異教・異端に対する警告でした。

 

パウロ書簡、フィレモンへの手紙

現存するパウロ書簡の中ではもっとも短く25節しかありません。

内容は特定の所用のために書かれたものであるので、『フィレモン書』が神学や思想に殆ど触れていない事は無理もない。マルティン・ルターは『フィレモン書』をパウロとキリストに共通する「ゆるし」という視点から捉えていますが、ルターもこの手紙でパウロが社会制度の変革を考えているとは考えなかった。つまりパウロはオネシモの奴隷身分については変えようとせず、当時の法律に従って逃亡奴隷であるオネシモを主人フィレモンのもとに送り返そうとしているのでした。

 

パウロ書簡は詳細な事情については書かないことが多く、此の手紙でもパウロはオネシモの件を解決するため、フィレモンの「キリスト者としての愛」に訴えています。パウロはオネシモのフィレモンに対する借りを自分のものにしてくれるよう頼むことで帳消しにするとともに、フィレモンもまたパウロに借りがあることを想起させる。パウロはオネシモが信仰に入ったことで、新たな身分になったとし、オネシモが「奴隷でなく愛する兄弟として」フィレモンの元に戻れるよう配慮している。

 

此の箇所が具体的に何を言おうとしているのか、パウロがフィレモンに何を望んでいたのか、つまりオネシモを許すことか、それ以上に奴隷から解放することなのかはよくわかっていません。パウロの望みが、オネシモがフィレモンにとって「奴隷にして兄弟」であることか、「奴隷でなく兄弟」なのか書簡からは読み取れない。この点に関しては聖書学者たちの意見も分かれていますが、パウロにとって福音が「奴隷制度」という当時当たり前だった社会構造にくさびを打ち込むものと考えていたと見るものもいます。

(以下5月29日追記)

 

公同書簡ヤコブの手紙

著者は冒頭部分で、自らを「主イエス・キリストのしもべであるヤコブ」と名乗る。新約聖書にはヤコブなる人物が複数現れますが、その中でこの手紙を書いたと考えうるの3人います。

 

1、「義人ヤコブ
三世紀の半ば以降、教父たちはイエスの兄弟(カトリック教会の解釈では従兄弟などの親類)で「義人」と呼ばれたヤコブが本書簡の著者であるとしてきました。彼は十二使徒には含まれておらず、パウロが『ガラテヤの信徒への手紙』で「主の兄弟」(1:19)、「教会の三人の柱の一人」(2:9)として言及する人物です。

 

2、「アルファイの子ヤコブ
ジャン・カルヴァンなどは著書は「主の兄弟」ヤコブではなくマタイの兄弟でレビとも呼ばれた「アルファイの子」ヤコブであるという。アルファイの子ヤコブは『マルコによる福音書』15:40に出る「ヤコブ」と同一人物ではないかと考えられるが、この人物についてはほとんど何もわかっていません

 

3、使徒の一人「大ヤコブ
本書簡の著者をこの「大ヤコブ」であるとする見方は稀で、彼は使徒ヨハネの兄弟でゼベダイの子であったとされます。然し、彼は早くに殉教していることから、此の書簡を彼が書いたとは考えにくい。何故ならヤコブの殉教は紀元44年以前ですが、本書簡が書かれたのはパウロの義化という考えに対する教会内の誤った認識を正すためであり、早くても50年代と考えられるからです。

 

ヤコブの手紙の内容

本書は各地に離散する(ディアスポラの)ユダヤ人にあてて書かれています。

著者が筆をとったのは、キリスト者の生活に於ける行いの重要性について再確認して貰うためであった。著者は次のようなものを危険視していました。

まず形式主義、これは神への奉仕を形だけのものにしてしまう。
誘惑を神に帰すること(1:13)
貧富の差で人を分けること(2:2)
言葉で過ちを犯すこと(3:2-12)
自慢や偽証(3:14)
悪口(4:11)
高慢(4:16)
贅沢(5:4)
などです。著者がキリスト者に向かってもっとも強調することは

試練における忍耐(5:7)
よきわざにおける忍耐(1:22-25)
主の再臨が近づき、その日になればすべての不義が正されるため、その日まで忍耐することが求められている。(5:8)
「行いによって義とされること」、このヤコブの主張は一見するとパウロが書簡の中で述べる「信仰によって義とされること」の反対の立場のように見える。この問題を解決するひとつの考え方はヤコブは「他者の前で義とされること」について語っており、パウロは「神の前で義とされること」について語っているというものです。

また、ヤコブは「行い=隣人愛」、パウロは「行い=古い律法」について語っている、というものです。

教父たちのあるものは、この問題を解決するために次のような考えを示しました。それは人間に救いを齎す信仰は愛によっていきいきとしたものとされるものであり、その愛ゆえに必ずよい行いを伴うということです。だから「信仰だけ」というのは単に頭で理解した言葉に過ぎないという見方ができます。その意味で興味深いのは使徒言行録26:20である。そこでパウロは「悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行いをするよう」呼びかけました。ある人はこれこそパウロヤコブのいうすべての生きた信仰が行いを伴うという考え方に賛同を示したものだとみていはした。

此の様に見てみると、ヤコブは福音を伝えているというより、道徳を教えているというのが適切だと思われます。 ヤコブは福音の核心を提示するよりもよいものと悪いものを並べることで倫理全体のありかたを示していました。此の様な反対のものを同時に示す書き方(光と影、正と偽など)はイエスの教えや、クムラン文書、『十二使徒の教え』などにも見られます。

また『ヤコブの手紙』は(嘗て臨終の秘蹟といわれたこともある)病者の塗油の聖書における根拠を含んでいるとみなされてきた。5:14~15でヤコブは共同体の中で病人が現れた場合の対処を示しており、これが後にカトリック教会の病者の塗油の形式になりました。

 

ペトロの手紙(1)

使徒の筆頭格であるペトロによるとされる書簡は2通あるなかで、『ペトロの手紙二』の扱いについては初代教会の時代から問題とされることが多かったですが、第一の手紙に関しては問題もなくすんなりと新約聖書の正典におさめられました。

 

内容的には異邦人に向けられています。初めにあげられているのは小アジアの五州で、著者は迫害に耐えること(1:2-10)、聖なる生活を送ること(2:11-3:13)、キリストにならって忍耐と聖性を示すこと(3:14-4:19)、最後は指導者たちへの助言によって締めくくっている(5章)。

本書の記述で注目すべきものは「終わりのときに、死者にまで福音が告げ知らされ、肉において裁かれ、神のうちに霊によって生きるようになる」(4:6)というものです。この表現は、福音書(マタイ16:18他)や使徒言行録2:27、ヨハネ黙示録(1:18他)に出てくるハデスの表現と共に、後に使徒信条に「陰府にくだり」という箇所で書き込まれることになり、以降のキリスト教思想において「陰府」の存在根拠のひとつとされることになります。

 

ペトロの手紙(2)

偽教師の誤った教えを攻撃しつつも、キリストの再臨が必ずあることを説く。いわゆる「終末の遅延」の問題を扱っている文書です。

イエス・キリストの使徒であったペトロが、死を目前にした状況で書いたという体裁になっている書簡で、全3章で構成されます。偽教師たちが説く偽りの教えを攻撃しつつも、最後の審判がいつになったら来るのかと揶揄する不信心者たちの誤りを指摘し、正しい信仰を堅持するように説いています。

 

構成

第1章

挨拶

神の素晴らしい約束・ キリストを知る者への素晴らしい約束とその実現の道

キリストの栄光と予言(旧約)の言葉・キリストの威光の目撃者の証言と勧め

エスの再臨と栄光の目撃者ペトロが遺言として確証する

 

第1章の要約

何れにせよ著者は自らが天に召されるときが近いことを述べ、殉教を前にした遺訓であることを示している(1章13 - 15節)

著者は第一ペトロ書とも重なり合う徳目表を示しています。即ち、それは「信仰」「徳」「知識」「節制」「忍耐」「信心」「兄弟愛」「愛」である(1章5 - 7節)。この徳目表にはヘレニズム的倫理用語が含まれますが、それを挟む「信仰」と「愛」が、それらの用語をキリスト教的なものとしています。それらはイエス・キリストの知識を得るために必要なものであり、読者は自らの努力によって、神による「召しと選び」を確実なものとすべきことが示されています。

1章の最後では「聖書」(この場合はいわゆる旧約聖書)が霊感によって書かれたものであることを述べ、預言者の言葉が神に由来することが示されています。此処から、神の言葉を勝手に解釈することが禁じられています。この点は3章に再び登場します。

 

第2章

偽預言者と偽教師についての警告・ 主を否定する偽教師たちの出現に関する警告・ 偽教師の出現の予告と彼らへの非難(ユダ書に基づいて)

 

第2章の要約

2章では旧約聖書の偽預言者の例を引きつつ、偽教師について警告を発しています。偽教師は神の啓示を捏造する偽預言者と違って、作り出した偽の教えを広める存在です。その批判の仕方はリベラル派からは「罵詈雑言」などとまで言われることがある厳しいものであり、福音派にも、少なくとも警告の遠慮のなさを認める意見は見られます。

その偽教師への批判に於いては、旧約聖書の『創世記』に登場するノアやロト、『民数記』に登場するバラムなどへの言及が見られます。但し、その多くは同じ公同書簡に含まれる『ユダの手紙』(以下、「ユダ書」)と共通しており、2章はユダ書3節から16節と非常によく似通っています。

 

"1 しかし、民の間に、にせ預言者が起ったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現れるであろう。彼らは、滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。2 また、大ぜいの人が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。3 彼らは、貪欲のために、甘言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう。彼らに対するさばきは昔から猶予なく行われ、彼らの滅亡も滞ることはない。"

 

"4 神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた。"

 

"6 また、ソドムとゴモラの町々を灰に帰せしめて破滅に処し、不信仰に走ろうとする人々の見せしめとし、7 ただ、非道の者どもの放縦な行いによってなやまされていた義人ロトだけを救い出された。"

 

"12 これらの者は、捕えられ、ほふられるために生れてきた、分別のない動物のようなもので、自分が知りもしないことをそ知り、その不義の報いとして罰を受け、必ず滅ぼされてしまうのである。"

 

"15 彼らは正しい道からはずれて迷いに陥り、ベオルの子バラムの道に従った。バラムは不義の実を愛し、16 そのために、自分のあやまちに対するとがめを受けた。ものを言わないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂気じみたふるまいをはばんだのである。17 この人々は、いわば、水のない井戸、突風に吹きはらわれる霧であって、彼らには暗やみが用意されている"

 

第3章

主の来臨の約束・主の来臨を待ち望む者の生き方・再臨を否定する人々への反証と勧告、結びの勧告と賛美

 

第3章の要約

第3章ではいわゆる「終末の遅延」の問題が扱われています。福音書に伝えられているイエスの言葉には、終末が間近に迫っていると理解できるものがありました。また、パウロも終末が間近に迫っているものと考えていました。例えば、『テサロニケの信徒への手紙一』にはこうある。

 

"15 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。 16 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、17 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。"

 

こうした状況の中、「あざける者」すなわち偽教師たちが、再臨を否定する言説を展開し、教会に対し分裂の危機を齎しました。それに対する反論が第3章の主眼でした。少し長くなりますが、中心的な箇所を引用します。

 

"3 まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、4「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。 5 すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、6その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。 7 しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。 8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。 9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。 10 しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。 11 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、12 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。13 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。14 愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。"

 

まず終末を否定するものの出現はそれ自体が終末の徴であるとします。そして、「あなたの目の前には千年も過ぎ去れば昨日の如く、夜の間のひと時のようです」(『詩篇』90章4節)などを念頭に置きつつ、神は人間の時間概念では捉えられないことを示します。そして、新約正典の他の文書にも見られる盗人の喩えを引き合いに出しつつ、いつ来てもよいように「きよく信心深い」生活をすることが勧められており、それこそが再臨を「早める」ことになるのだと説かれています。

此処で注意すべき事は、著者は終末の到来を先送りすることに力点を置いているのではなく、偽教師たちがいつまでも来ないと揶揄した終末が、自分たちの間近に迫っているという期待を表明することにあったという点です。そして、その終末への希望は、後のキリスト教徒たちが迫害に耐えて信仰を固守する根拠となりました。

 

ヨハネの手紙(1)

著者によれば、この手紙が書かれた理由は「神の子を信じるあなたがたが、永遠の命を得ていることを知るためである。」(5:18)著者が気にかけているのは自分が携わっている共同体に影響を及ぼす異端的な思想を持つ教師たちのことである。このような人々、かつて共同体のメンバーだったにもかかわらず正当な教えから逸脱した教師たちは「反キリスト」(2:18-19)とみなされている。これらの人々が教えていたのはキリストは体の実体を持たない霊のみの存在(4:2)であったということで、彼らはイエスの十字架上の死に贖罪の意義を付与するのは間違いである(1:7)と考えていました。

目的は手紙のあて先の人々に対して、命の言葉を述べ伝えること、それによって父なる神と子であるキリストとの交わりの中に入ることである。神との合一の意味を、キリストについていえば、その罪の償い(1:7、2:2、3:5、4:10-14、5:11-12)と神への弁護者としての意味(2:1)を、人間について言えば、聖性(1:6)、おきてに従うこと(2:3)、清め(3:3)、信仰(3:23、4:3、5:5)、愛(2:7)における意義を示しています。

 

ヨハネの手紙(2)

「長老のわたし」は、手紙の受取人に対しその信仰を称賛し、互いに愛し合うことの大切さを説き、偽教師に警戒するよう勧めています。その内容には第一の手紙との並行関係をかなりの程度読み取ることができ、ギュンター・ボルンカムは第一の手紙に比べて「何ら新しいものを齎さない」とまで評しています。他方で、他のヨハネ文書に見られない特色として、3節の「憐み」の付加、8節の「報い」について、10節の異端に対する「挨拶」の禁止の3点を挙げる者もいます。

挨拶の禁止は反キリストに向けられています。此処での反キリストは「イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者」(7節)を指す。ここで排撃されている仮現説的な思想はグノーシス主義と推測されることもあります。他にも、第一の手紙で排撃されている思想と関連付けつつ、ケリントスとの類似性が指摘されることもありますが、相違点も見られます。挨拶は当時のオリエントにおいては仲間や連帯を意味する行為であったとされ、その事がこうした厳格な禁止の背景にあったとも言われています。「その人を家に入れること」も禁じるということとあわせ、地域的背景として、異端の教えを説く者が巡回説教者として巡っていたのだろうと推測されています。

 

ヨハネの手紙(3)

本書は新約聖書の正典を構成する27文書の一つで、公同書簡に分類される3通のヨハネ書簡の最後のものです。ガイオという人物に宛てて、他のキリスト教徒を受け入れ、親切にすることを説いたこの書簡は15節しかなく、旧約・新約聖書の中でも短さの点で一、二を争うものです。1世紀後半から2世紀初め頃に成立したと考えられていますが、その短さや教理的要素の少なさもあって、キリスト教文献での直接的言及は3世紀まで見られず、正典と広く承認されるまでに時間を要しました。

神学的内容は希薄とされ、新約聖書の中で重視されてきたとは言いがたいですが、信徒同士が親切にしあうことの大切さや尊大に振舞うことへの戒めが説かれていると見做されており、教会制度の過渡期の様子を伝えているという歴史的側面からの評価もなされています。

(以下5月30日追記)

 

ユダの手紙

ユダ書は新約聖書の中でも僅か25節の短い書簡であり、異端に対して厳しい批判を展開すると共に、信徒に正しい信仰を守ることを勧めています。

但し、新約聖書で章分けされていないのは『フィレモンへの手紙』(25節)、『ヨハネの手紙二』(13節)、『ヨハネの手紙三』(15節)、そしてこのユダ書の4通の書簡のみだが、単語数で見た場合、その中では最も長いものです。

ユダ書は短く、しばしば具体性を欠くことなどが批判され、田川建三は「第二ペテロ二章との比較の役に立つ以外には、何の価値もない」と断じているました。

 

主題

ユダ書は「異端に対する烈しい反論の書」です。但し、その反論は異端の教理を具体的に取り上げて論駁する形をとらず、彼らの不品行を批判したり、旧約聖書などを引き合いに出したりしつつ、異端の末路がどのようなものかを示すものとなっています。そのため、ここで攻撃されている異端がどのような存在であったかについては不明瞭な部分もありますが、グノーシス主義的な思想に基づく自由放縦な人々がしばしば想定されます。ユダ書の目的は、そうした異端との対決、あるいは偽教師たちについての警告などと位置づけられています。

 

ヨハネの黙示録

ヨハネの黙示録新約聖書の最後に配された聖典であり、『新約聖書』の中で唯一預言書的性格を持つ書です。主に終末論について書かれています。

 

構成

文中では著者自ら「ヨハネ」と名乗り、終末に於いて起こるであろう出来事の幻を見たと語る。『黙示録』は以下の様な構成となっています。

 

第1章 緒言(1章)
初めの言葉(1:1-3)
七つの教会へのあいさつ(1:4-8)
ヨハネへの啓示が示された顛末(1:9-20)


第2章 七つの教会へのメッセージ(2章-3章)
エペソ教会: 偽りを退けたが、愛から離れた(2:1-7)
スミルナ教会: 貧しいが富んでいる。死に至るまで忠実であれ。(2:8-11)
ペルガモ教会: サタンの王座がある場所で忠実に証ししているが、ニコライ派の教えを悔い改めよ。(2:12-17)
テアテラ教会: 愛、奉仕、信仰、忍耐を知っているが、イザベラという女の好き勝手にさせている。(2:18-29)
サルデス教会: 死んでいる。目を覚まして悔い改めよ。 (3:1-6)
フィラデルフィヤ教会: 門を開く。みことばに従い、名を否まず、力があった。(3:7-13)
ラオデキヤ教会: 冷たいか熱くあれ。門の外に立ってたたく(3:14-22)


第3章 神の玉座 天における礼拝と小羊の登場(4章-5章)
神の御座に上れ(4:1-3)
聖なるかな聖なるかな聖なるかな(4:4-11)
子羊だけが封印を解くことのできる(5:1-7)
彼らは讃美をささげる (5:8-14)


第4章 子羊が七つの封印を開封する(6章-8章5節)
第一の封印:白い馬。勝利の上に更に勝利を得ようとして出て行く(6:1-2)
第二の封印:火のように赤い馬。戦争をもたらす(6:3-4)
第三の封印:黒い馬。飢饉をもたらす(6:5-6)
第四の封印:青ざめた馬。死をもたらす(6:7-8)
第五の封印:殉教者が血の復讐を求める(6:9-11)
第六の封印:地震と天災(6:12-17)
神の刻印を押されたイスラエルの子ら(7:1-8)
大患難を通り、子羊の血で洗った白い衣を着た大群衆(7:9-17)
第七の封印:しばらく沈黙があり、祈りがささげられる(8:1-5)


第5章 七人の天使がラッパ(士気を上げる音)を吹く(8章6節-11章19節)
第一のラッパ:地上の三分の一、木々の三分の一、すべての青草が焼ける (8:6-7)
第二のラッパ:海の三分の一が血になり、海の生物の三分の一が死ぬ (8:8-9)
第三のラッパ:にがよもぎという星が落ちて、川の三分の一が苦くなり、人が死ぬ (8:10-11)
第四のラッパ:太陽、月、星の三分の一が暗くなる(8:12-13)
第五のラッパ:いなごが額に神の刻印がない人を5ヶ月苦しめる(9:1-12)
第六のラッパ:四人の天使が人間の三分の一を殺した。生き残った人間は相変わらず悪霊、金、銀、銅、石の偶像を拝んだ(9:13-21)
天使に渡された小さな巻物を食べた。腹には苦いが、口には甘い(10:1-11)
二人の証人が殺されるが生き返る(11:1-14)
第七のラッパ:この世の国はわれらの主、メシアのものとなった。天の神殿が開かれ、契約の箱が見える。(11:15-19)


第6章 天の戦い、地における獣の増大、地の刈り入れ(12章-14章)
女を見た。太陽を着て、月を踏み、12の星をかぶる(12:1-6)
天で戦いが起こった。サタンが地に投げ落とされる(12:7-12)
赤い竜が神の民を迫害する(12:13-17)
獣が神の民と戦うために海の中から上ってくる。いのちの書に名が記されていないものはこれを拝む(13:1-10)
獣が地から上ってくる。獣の刻印を付ける (13:11-18)
エルサレムのシオンの山の子羊(14:1-5)
三人の天使が裁きを宣言する(14:6-13)
鎌が地に投げ入れられる(14:14-20)


第7章 最後の七つの災い 神の怒りが極みに達する(15章-16章)
七人の天使が神の怒りの満ちた七つの鉢を受け取る(15:1-8)
神の怒りを地にぶちまける(16:1)
第一の鉢:獣のしるしを付ける者、獣の像を拝む者に悪性のはれ物ができる(16:2)
第二の鉢:海が死人の血のようになって海の生物がみんな死ぬ(16:3)
第三の鉢:水が血に変わる(16:4-7)
第四の鉢:人間が太陽の火で焼かれる。それでも神を冒涜し、悔い改めない(16:8-9)
第五の鉢:獣の国が闇におおわれる。激しい苦痛(16:10-11)
第六の鉢:しるしを行う3匹の悪霊、ハルマゲドンに王を集める(16:12-16)
第七の鉢:大地震 島も山も消える(16:17-21)


第8章 大淫婦の裁きとバビロンの滅亡(17章-18章)
大淫婦が裁かれる(17:1-18)
バビロンの滅亡 (18:1-8)
人々がバビロンの滅亡をなげく(18:9-19)
喜べ。バビロンが完全に滅びる(18:20-24)


第9章 天に於ける礼拝 子羊の婚礼(19章1-10節)
大群集が神を讃美する(19:1-6)
子羊の婚宴(19:7-10)


第10章 キリストの千年の統治の開始、サタンと人々の裁き(19章11節-20章)
この世の支配者たちの上に君臨される方
白い馬に乗った方の名は「誠実」「真実」、血に染まった服を着る「神のことば」、「王の王」「主の主」(19:11-16)
獣と偽預言者が火の池に投げ込まれる (19:17-21)
千年王国
サタンは底知れぬ所に封印されるが、その後しばらく自由の身となる (20:1-3)
殉教者と、獣の像を拝まず、獣の刻印を受けなかった者が復活して、千年間統治する。(20:4-6)
千年王国の後
サタンが一時的に解放されて神の民と戦うが、滅ぼされる(20:7-9)
サタンが獣や偽預言者もいる火と硫黄の池に投げ込まれて、永遠に苦しむ(20:10)
最後の裁き:いのちの書に名が無い者がすべて火の池に投げ込まれて、永遠に苦しむ (20:11-15)


第11章 新天新地
新しい天と新しい地 最初の天と地は去った。(21:1-8)
神が人と共に住み、涙をぬぐわれる、死もなく、悲しみもない。そこにはいのちの書に名が書かれている者だけが入ることが出来る。(21:2-8)
新しいエルサレムの説明 (21:9-27)
神と子羊の玉座からいのちの水の川が流れる(22:1-5)


第12章 全体の結び
イエス・キリストの再臨(22:6-17)
警告:この書物に(記述を)付け加える者には災害が加えられ、(記述を)取り除く者からはいのちの木と聖なる都から受ける分が取り上げられる。 (22:18-21)

 

 

ヨハネの黙示録に対する解釈

『黙示録』は歴史の中で様々に論じられてきました。特に『聖書』の中でも此処にしか現れない「千年王国」論の特殊性への賛否やキリストの再臨の解釈をめぐって多くの議論を巻き起こしました。しかし、歴史の中で現れた多くの解釈をまとめると預言書、文学、普遍的イメージの三つの見方に集約することが出来るとする意見もあります。

 

1、預言者としての解釈

此の見方は『黙示録』を『ダニエル書』などの流れにある終末預言の一つであるとして、未来の事柄についても語られた終末預言書とみる見方です。

マルティン・ルターら歴史的なプロテスタントの黙示録理解は、歴史主義解釈というもので、起こっていない未来の出来事を預言として与えられたという見方です。此の立場では、未来にキリスト教の教理であるイエス・キリストの再臨、人間の体の復活、最後の審判、天国あるいは地獄への裁き、新天新地の到来があると信じられています。

 

2、文学類型としての解釈

此の見方では、『黙示録』は、紀元前2世紀以降のユダヤ教で起こった終末思想とそれに従って書かれた『ダニエル書』などの一連の黙示文学の影響を受けたキリスト教的黙示文学であると解釈する。この見方が18世紀以降、自由主義神学の高等批評を受け入れる研究者の中では主流となっている。この解釈に沿ってみていくと、『黙示録』が『ダニエル書』などの一連の黙示文学と同じ「幻のうちに受ける啓示」、「歴史区分の提示」、「神の完全な支配の実現」などのパターンに沿って書かれているということがよくわかります。

(黙示 も参照のこと)

 

3、普遍的テーマのイメージ化としての解釈

20世紀以降、『黙示録』を「善と悪の対立」および「善の最終的な勝利」という普遍的テーマを著者のイマジネーションによって自由にイメージ化した作品という解釈が現れました。

他にも著者ヨハネが死に瀕した苦痛を和らげるため天然麻薬であるニガヨモギを吸い、それによって見た幻覚であるという説(麻薬幻覚説)もありますが、この説は正式な学問的確証に基づいたものでないため、聖書学者たちに受け入れられたことはないです。

幻覚説を除けば、三つの説はいずれも排他的なものでなく、どれか一つをとれば他の二つは間違いであるといった性質のものではないとする立場もあるが、一般に現代のリベラルな教派の間では、第二の「文学類型」的解釈が主流で未来に起こることが預言として与えられていると考える者は少ないです。

 

キリスト教の教理

但し、プロテスタント信仰告白では、ウェストミンスター信仰告白にも、未来に起こることがらである再臨と最後の審判の根拠の聖句としてあげられています。今日でも歴史的なキリスト教終末論の理解からは、使徒ヨハネが神の啓示を受けたと信じられています。

 

黙示

黙示(アポカリプス)は、初期のユダヤ教およびキリスト教に於いて、神が選ばれた預言者に与えたとする「秘密の暴露」、またそれを記録したものです。黙示を記録した書を黙示文学(もくしぶんがく)といいます。黙示文学はユダヤ教キリスト教イスラム教の伝統において極めて重要です。

黙示文学では、天地創造以来現代を経て終末に至るまでの時代区分の説明、善と悪の対立、現代が悪の支配する時代であるという認識、終末による悪の時代の終焉、死者の復活、最後の審判、天国と地獄などの教義が与えられています。

 

宗教文書としての黙示文学は文学の明らかな派生形態と見做されます。この領域には幾つかの特徴をなす要素があります。

 

秘儀の啓示

黙示とは秘儀、即ち人間の知識の通常の範囲を超えたところにあるものの啓示であります。神は預言者あるいは聖人を選び、隠された事柄についての教示を与えま。それらの隠された事柄とは人間の経験からは疎遠なものごとであるか、さもなければ人類史のなかにいまだ起こっていない出来事です。天界の秘儀の幾つかが、詳細はどうあれ明かされます。その内容は、神の目的、天使および悪霊の行為と特徴、自然現象の説明、天地創造および最初期の人類の歴史、人類の歴史の区分と善悪の勢力による支配、ごく近い将来に差し迫った出来事、とりわけイスラエルの未来に関係のある出来事、世界の終わり、最後の審判、人類の運命、メシアの再臨、天国と地獄の描写などです。

 

夢または幻を通じた啓示

隠された知恵の啓示は、幻あるいは夢によって与えられます。

旧約聖書における黙示文学の主要な例は『ダニエル書』の中に見出されます。ダニエルが長い断食の後川のほとりに立っていると、天の使いが彼に顕れ、そのあとに啓示が続いた(ダニエル書 10:2-4)。ヨハネもまた『ヨハネの黙示録』のなかで、似たような経験を極めて類似した言葉で綴っています。

 

未来との関係

黙示文学の典型的な構成に於いては、筆者の主要な関心は未来にあります。基本的に黙示とは、通常は明白な宗教的な目的をもった預言者が、神が人間を扱う方法と神の究極の目的を示すことを意図しています。

 

神秘的または幻想的要素

神秘的な要素は主題と書き方の両方に顕著であり、典型的な黙示文学すべてに共通して明らかな要素です。 

 

終末論

神や絶対者の審判や未来での救済に求めようとするのは、どこの文化でも宗教一般に見られ、ユダヤ教からキリスト教イスラム教、ゾロアスター教といった一神教においてのみならず、仏教などの宗教などにおいても同様の考え方があります。しかし、終末ということの基準を、個々人の死の意味ではなく、民全体にとっての最後のとき、民全体に対する最後の審判と義人選別救済のとき、とするならば、終末論は本質的に一神教のものと見做されます。

キリスト教の場合、具体的に四終(死・審判・天国・地獄)という言葉に由来し、イエス・キリストの復活と最後の審判への待望という事を述べています。

 

もし人間の人智を超えたロボットが世の中に現れたのならば、壊されても修理可能な上、酸素のない宇宙空間や極寒の南極やエベレストやマリアナ海溝でも平気で飛び込むことが可能で人類の如何なる天才をも上回る知能と不老長寿であるとすれば、死や地球の終末論といった概念を打ち破る事になります。

それでも、宗教で学んだ知識は決して無駄になる事はないと僕は考えています。

 

聖書の目次

旧約聖書(39書)
律法の書
創世紀ーーーー神の創造のわざとアブラハムとの契約 (モーセ五書
出エジプト記ーーイスラエルとの契約と律法
レビ記ーーーーモラル、儀式的な律法
民数記ーーーー約束の地への旅路
申命記ーーーー契約と律法の復習
歴史書(十二書)
ヨシュヤ記ーーー約束の地、カナンの征服
士師記ーーーーカナンの地で士師がイスラエルを治めた記録
ルツ記ーーーー士師の時代におけるルツという女性の話
1サミエルーーーサウロ王の確立
2サミエルーーーダビデ王の確立
1列王記ーーーーソロモン王の確立、王国の分裂
2列王記ーーーー南と北王国の歴史
1歴代誌ーーーー創世紀からの系図からダビデ王まで
2歴代誌ーーーーソロモン王から南と北王国の歴史
エズラ記ーーーーバビロンからの帰還と神殿建設
ネヘミヤ記ーーーバビロンからの帰還とエルサレムの壁建設
エステル記ーーーペルシャ時代におけるユダヤ人たちの話
知恵文学 (五書)
ヨブ記ーーーーー人生の苦しみと神の答え
詩篇ーーーーー神への賛美と賛歌
箴言ーーーーー知恵ある人生
伝道者の書ーー人生の目的
雅歌ーーーーー結婚生活の賛歌
大預言書(五書)
イザヤ書ーーーー前730、神の支配と希望
エレミヤ書ーーー前580、南の王国滅亡と希望
哀歌ーーーーーー前580、南の王国滅亡と悲しみ
エゼキエル書ーー前580、南王国滅亡と復帰
ダニエル書ーーー前580、神の支配
小預言書 (十二書) 
ホセヤ書ーーーー前730、イスラエルの不義
ヨエル書ーーーー時代不明、神の裁き
アモス書ーーーー前730、社会的不義と神の裁き
オバデヤ書ーーー前580前後、神のエドムに対する裁き
ヨナ書ーーーーー前780、ニネベ伝道
ミカ書ーーーーー前730、神が求めるもの
ナホム書ーーーー前650、神の権威とニネベの運命
ハバクク書ーーー前600、神の義とユダの不義
ゼパニヤ書ーーー前620、神の審判
ハガイ書ーーーー前520、神殿建設
ゼカリヤ書ーーー前520、神殿建設
マラキ書ーーーー前460、悔い改めよ
新約聖書(二十七書)
福音書
マタイーーーーイエス・キリストの生涯と倫理的な教え
マルコーーーーイエス・キリストの愛のわざ
ルカーーーーーイエス・キリストを通して示された人への愛
ヨハネーーーーイエス・キリストを信じる為に書かれた書
教会の成長を記録した書
使徒の働きーーーー 聖霊によるペテロとパウロの働きを通しての初期教会の成長の記録
諸教会に宛てた手紙
ローマーーーー信仰による救い
1コリントーーーー分派分裂の問題
2コリントーーーーパウロの使徒としての権威
ガラテヤーーーー律法ではなく信仰と恵みによる救い
エペソーーーー神のイエス・キリストによる永遠の計画
ピリピーーーーイエス・キリストにある喜び
コロサイーーーー神であるイエス・キリスト
1テサロニケーーー主の再臨についての確証
2テサロニケーーー主の再臨まで主にあって励みなさい
1テモテーーーー偽教師に対するテモテへのアドバイス
2テモテーーーーパウロの最後のことば
テトスーーーーテトスへの命令・長老の任命
ピレモンーーーー主人と奴隷の和解のための助言
ヤコブーーーークリスチャンのための倫理的な教えと動機
1ペテローーーークリスチャンとして迫害に対する
2ペテローーーー偽教師に対処する
ヨハネーーーー互いに愛しなさい
ヨハネーーーー偽教師と本物の教師を見極める
ヨハネーーーー旅人をもてなす
ユダーーーー偽教師についての警告 説教の記録
ヘブルーーーー大祭司イエス・キリストによる新しい契約
黙示文学
黙示録ーーーーローマ帝国の偶像礼拝支配の中でも イエス・キリストによってクリスチャンが勝利 するという保証
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