美少女ロボット計画2017 第11章 宗教から学ぶ美少女ロボット計画@儒教編

美少女ロボット計画

儒教とは、孔子によって体系化された教えのことです。

『仁(人間愛)と礼(規範)に基づく理想社会の実現』孔子は、それまでのシャーマニズムのような原始儒教を体系化し、一つの道徳・思想に昇華させました。その根本義は「仁」であり、仁が様々な場面において貫徹されることにより、道徳が保たれると説いた。

儒教に於ける聖人とは、偉大・崇高・高貴の三要素を兼ねているな人物を指します。即ち、政治指導者としてだけではなく、道徳の体現者としても理想とされる人物です。高貴だが凡庸な人物、高貴だが下劣な人物、或いは下賎だが崇高な人物には該当しない。対義語で、凡庸・下劣・下賎の三要素を兼ねている人物は「小人」といいます。

 

 宋代になると、士大夫たちは自らを孔子孟子を継ぐ聖人となることを目指すようになり、「聖人、学んで至るべし」というスローガンのもと、道徳的な自己修養を重ねて聖人に到る学問を模索しました。明代の陽明学では「満街聖人」という街中の人が本来的に聖人であるとする主張をし、王や士大夫のみならず、庶民に至る全ての人が聖人となることができる可能性を見いだしたのです。

 

儒教の経典は『易』・『書』・『詩』・『礼』・『楽』・『春秋』の六芸(六経)です。

 

儒教の教義(五常

仁とは儒教に於ける徳の一つです。仁愛、人間愛のこと。とくに儒家によって強調されており、孔子がその中心にすえた倫理規定、人間関係の基本です。

人を思い遣る事。白川静孔子伝』によれば、「狩衣姿も凛々しい若者の頼もしさをいう語」。「説文解字」は「親」に通じると述べています。

また、孔子は聖人は仁者であるべきと悟りました。
論語」の中では、さまざまな説明がなされていて、孔子は仁を最高の徳目としていました。

主に「他人に対する親愛の情、優しさ」を意味しており、儒教における最重要な「五常の徳」のひとつです。また仁と義を合わせて、「仁義」と呼びます。古代から近代に至るまで中国人の倫理規定の最重要項目となってきました。中国の伝統的な社会秩序(礼)を支える精神、心のあり方です。

 

なお、孔子は、『論語』のなかで「仁」について明確な定義をおこなっておらず、相手によって、また質問に応じてさまざまに答えています。言い換えれば、儒家の立場に於いては「仁」とは人間にとってもっとも普遍的で包括的、根源的な愛を意味するものとして考えられてきたのであり、「孝」や「悌」、「忠」なども仁のひとつのあらわれだと主張されているのです。

 

聖人(後日移植予定です)

一般的に聖人とは、徳が高く、人格高潔で、生き方において他の人物の模範となるような人物のことで、仏教儒教キリスト教ユダヤ教イスラム教などの宗教に於ける聖人を意味します。

多くの場合、主に特定の宗教・宗派の中での教祖や高弟、崇拝・崇敬対象となる過去の人物を指します。

 

利欲に囚われず、すべきことをすること。

義は、人間の行動・志操・道徳で、良い・正しいとされる概念です。

義人とは「堅く正義を守る人。わが身の利害をかえりみずに他人のために尽くす人」(広辞苑第6版)。対義語で、行動・志操・道徳が「悪い」「邪(よこしま)」を意味する概念は「奸」(かん)といいます。

儒教に於ける義は、正しい行いを守ることであり、人間の欲望を追求する「利」と対立する概念として考えられています。孟子は羞悪の心が義の端であると説いて、羞悪の心とは、悪すなわちわるく・劣り・欠け、あるいはほしいままに振舞う心性を恥じる心のことです。

 

キリスト教に於ける義とは(キリスト教編にも以下同文を掲載)

キリスト教における義という訳語は、ギリシア語でΔικαιοσυνη dikaiosynee ディカイオシュネーと呼ばれるもので、罪の対立概念とされます。これは他者に対して正しい、誠実な、偽りのない態度で臨むこと、またそのような態度が可能である魂の状態をいい、義しい人を義人と呼びます。福音書パウロ書簡などで主題化される。

真に義であるのは神のみである(義人はいない)が、人間は神を信じることに於いて義に近づくことができる。信じないことは不義と同義であるとされます。『ヤコブの手紙』によれば義しさは、神への信仰を表明することのみならず、他の人間に対する行為において現れます。

 

ルターは人が行動において義とされること(行為義認)を否定し、信仰によってのみ人が義とされること、それまでのキリスト教で行われていた苦行、断食などの考えを否定しました。

これは当にイスラム教の禁欲主義を否定するのと同じようなものだと思います。

 

礼とは、様々な行事のなかで規定されている動作や言行、服装や道具などの総称。

人間関係を円滑にすすめ社会秩序(儒家にとっては身分制階級秩序)を維持するための道徳的な規範をも意味するようになっています。

仁を具体的な行動として、表したものです。もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味していました。のちに、人間の上下関係で守るべきことを意味するようになった。

 

孔子は礼について「克己復礼(自己に打ち克って礼に復帰する)」することが仁であると説き、仁を表現するうえで礼と仁は不可分のものと考えました。孟子も同様に、仁・義を美的に整え、飾るのが礼であると説いた。

儒家の礼の基本精神は供犠であり、「正しい」方法を守るという倫理的な支持以外の見返りを期待しない贈与です。孟子は「礼にかなっていなければ、どんなに飢えたひとであっても、施しの食事を受け取ることはない」と述べ、礼は人間のあり方として訓練されるべき規範であると説いた。

礼は規範ですが、法規範のように客観的・普遍的なものではなく、感情を様式化した主観的で特殊な規範です。礼の具体的な適用場面は王朝や時代に応じて適切な形に見直され、変形しています。

 

四礼

婚姻之礼 - その由来は人に「男女の情、妬忌の別」があるため。
郷飲之礼 - その由来は人に「交接長幼の序」があるため。
喪祭之礼 - その由来は人に「哀死思遠の情」があるため。
朝覲之礼 - その由来は人に「尊尊敬上の心」があるため。
後には「冠礼」・「婚礼」・「葬礼」・「祭礼」を四礼と呼んだ。

 

五礼

『周礼』大宗伯には礼が五つに分類されています。

吉礼 - 天地鬼神の祭祀(邦国の鬼神につかえる)
凶礼 - 葬儀・災害救済(邦国の憂いを哀れむ)
軍礼 - 出陣・凱旋(邦国を同じくする)
賓礼 - 外交(邦国に親しむ)
嘉礼 - 冠婚・饗宴・祝賀(万民に親しむ)

 

学問に励むこと。

 

言明を違えないこと、真実を告げること、約束を守ること、誠実であること。

一般的には真実で偽りのないことで、信用。信仰。宗教・倫理の分野に於いて様々に用いられています。

 

儒教に於いては、五常仁義礼智信)の一徳目であり、友情に厚く、人をあざむかないこと、誠実なことです。孔子は「民、信なければ立たず」(人間は信がなければ生きていくことができない)と「信」の重要性を指摘しています。孟子は、人が守るべき「五倫」の道のなかに「朋友(ほうゆう)信あり」として「信」を守るべき徳のひとつとして掲げています。また、孟子の四端説における「仁義礼智」の四徳に対し、前漢代になって、五行説にもとづいて董仲舒により「信」の徳目が付け加えられ、合わせて「仁義礼智信」の「五常」と称されています。

 

仏教に於ける信

開祖仏陀ゴータマ・シッダールタ)の教えを信ずることによって、心が清らかに澄みわたることです。

 

イスラム教に於ける信

唯一全能の神(アッラーフ
天使の存在(マラーイカ
啓典(神の啓示、キターブ)
使徒・預言者(ラスール)
来世の存在(アーヒラ)
定命(カダル)
クルアーンの6か条がそれであり、これは「六信」と総称される。