美少女ロボット計画2017 第11章 宗教から学ぶ美少女ロボット計画@仏教編

美少女ロボット計画

宗教は哲学と人権と強い結び付きがあるもので、主な宗教の教義から美少女ロボットに何が必要かを考えます。また、美少女ロボットを製造竣工した際など、冠婚葬祭といった儀式も必要だと思います。

美少女ロボットを造るのは聖職者であるべきだと思うが故に聖職者に成る為の勉強を怠ってはならないと僕は真剣に考えています。

美少女ロボットの製造寺院では仏教キリスト教の祭壇を設けた部屋を設置する予定です。

 

 

それでは、各宗教の観点から解説していきますが、仏教キリスト教だけでも長くなるので1記事に纒めます。

 

仏教

仏教は釈迦を開祖とする北インドやネパールを発祥したアジア全体の宗教とも言えます。日本には何処に行っても至る所に寺があって、お寺と神社の違いは仏教神道の違いです。

仏教の世界観は必然的に、仏教誕生の地であるネパールの世界観である輪廻と解脱の考えに基づいています。人の一生は苦であり永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになります。その苦しみから抜け出すことが解脱であり、修行により解脱を目指すことが初期仏教の目的でした。

 

輪廻転生・六道・仏教と神

仏教に於いては、迷いの世界から解脱しない限り、無限に存在する前世と、生前の業、および臨終の心の状態などによって次の転生先へと輪廻するとされています。部派では「天・人・餓鬼・畜生・地獄」の五道、大乗仏教ではこれに修羅を加えた六道の転生先に生まれ変わるとされ、生前に良い行いを続け功徳を積めば次の輪廻では良き境遇(善趣)に生まれ変わり、悪業を積めば苦しい境遇(悪趣)に生まれ変わる。

 

六道

天道・人間道・修羅道・餓鬼道・畜生道地獄道の事です。

仏教に於いて、迷いがあるものが輪廻と言います。仏教では、輪廻を空間的事象、あるいは死後に趣く世界ではなく、心の状態として捉えます。例えば、天道界に趣けば、心の状態が天道のような状態にあり、地獄界に趣けば、心の状態が地獄のような状態である、と解釈されます。

 

天道 如意輪観音

天道は天人が住まう世界です。天人は人間よりも優れた存在とされ、寿命は非常に長く、また苦しみも人間道に比べて殆ど無いとされます。また、空を飛ぶことができ享楽のうちに生涯を過ごすといわれる。然しながら煩悩から解き放たれておらず、仏教に出会うこともないため解脱も出来ない。天人が死を迎えるときは5つの変化が現れる。これを五衰(天人五衰)と称し、体が垢に塗れて悪臭を放ち、脇から汗が出て自分の居場所を好まなくなり、頭の上の花が萎むと云われています。

 

人間道 不空羂索観音准胝観音

人間道は人間が住む世界です。四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界であるが、苦しみが続くばかりではなく楽しみもあるとされる。また、唯一自力で仏教に出会える世界であり、解脱し仏になりうるという救いもあります。

 

修羅道 十一面観音

修羅道は阿修羅の住まう世界です。修羅は終始戦い、争うとされます。苦しみや怒りが絶えないが地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに帰結するところが大きい世界です。

 

畜生道 馬頭観音

畜生道は牛馬など畜生の世界です。殆ど本能ばかりで生きており、使役されるがままという点からは自力で仏の教えを得ることの出来ない状態で救いの少ない世界とされる。他から畜養されるもの、すなわち畜生である。

 

餓鬼道 千手観音

餓鬼道は餓鬼の世界です。餓鬼は腹が膨れた姿の鬼で、食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされる。他人を慮らなかったために餓鬼になった例がある。旧暦7月15日の施餓鬼はこの餓鬼を救うために行われます。

 

地獄道 聖観音

その名の通り、誰もが知ってる地獄の事で、地獄道は罪を償わせるための世界です。

 

煩悩(ぼんのう)

煩悩とは仏教の教義のひとつで、心身を乱し悩ませ知恵を妨げる心の働き・心の汚れをいいます。

除夜の鐘が108回なのは煩悩の原因が108個あるからとされています。

真正仏教では、人の苦の原因を自らの煩悩と捉え、その縁起を把握・克服する解脱・涅槃(ねはん)への道が求められました。部派仏教の時代になると、煩悩の深い分析が行われました。

大乗仏教でも此の分析は続けられ、特に唯識が示した心と煩悩の精緻(せいち)な探求は大乗仏教を観念論へと導く端緒(たんしょ)でもあった。それにより此の時代には、煩悩を否定しないという真正の仏教には無かった発想も生じてきた(如来蔵)。この両者の思想はその後の大乗仏教に深く影響を与えました。

 

如来蔵思想

如来蔵思想では、煩悩とは本来清浄な人間の心に偶発的に付着したものであると説きます(客塵煩悩)。

此の煩悩を知恵によって断滅し、衆生が本来もっている仏性を明らかにすること、すなわち煩悩の束縛を脱して知恵を得ることが、大乗仏教の求める悟りに他ならないのです。

菩薩の四弘誓願(しぐぜいがん)に「煩悩無量誓願断」が立てられているのは、煩悩を断ずる事が大乗仏教の基本思想であることを示します。

人間は所詮、煩悩から逃れられぬという所に観念し、煩悩を在るがままの姿として捉え、そこに悟りを見出だそうとする煩悩即菩提の考えが、次第に大乗仏教の中で大きな思想的位置を占めるようになりました。

 

仏性

仏性とは、仏の性質・本性のことで、主に『涅槃経』で説かれる大乗仏教独特の教理です。仏教では、この仏性を開発し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされます。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされています。

 

三因仏性

正因仏性(しょういんぶっしょう) - 本性としてもとから具わっている仏性のこと
了因仏性(りょういんぶっしょう) - 仏性を照らし出す智慧や、その智慧によって 発露(ほつろ)した仏性のこと
縁因仏性(えんいんぶっしょう) - 智慧として発露するための縁となる善なる行いのこと

 

四弘誓願

菩薩が一切衆生を救済するという願いと誓いを立て、願いが叶うまでは自分が涅槃には赴かないとする。大乗仏教徒によって強調されました。また阿弥陀仏の本願も誓願と同じです。

 

四弘誓願とは、菩薩が仏道を求めるとき、最初に立てる四つの誓願のことです。菩薩が普遍的に追求すべきものであるとされているため、全ての菩薩の共通の誓願である。上求菩提・下化衆生(上の如来に菩提を求め・下の衆生を化益する)の願は、この四弘誓願をもって要制するといいます。

 

衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど) - 地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するという誓願


煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん) - 煩悩は無量だが、すべて断つという誓願


法門無尽誓願智(ほうもんむじんせいがんち) - 法門は無尽だが、すべて知るという誓願


仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう) - 仏の道は無上だが、かならず成仏するという誓願


日本仏教の殆どの宗派の在家檀信徒が日常読経すべきものとされています。なお、煩悩無量誓願断を煩悩無尽誓願断、法門無尽誓願智を法門無量誓願学とするなど、宗派によって多少の語句の違いがあります。

 

未度の者を度せしめん いまだ済度せざる者を済度せしめんとす
未解の者を解せしめん いまだ理解せざる者を理解せしめんとす
未安の者を安ぜしめん いまだ安心せざる者を安心せしめんとす
未涅槃の者を涅槃せしめん いまだ涅槃せざる者を涅槃せしめんとす

 

ただし、禅系の三宗(曹洞宗臨済宗黄檗宗)では、台詞は以下の通り。

衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)
法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)
仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)

 

 

 

菩薩(ぼさつ)

仏教に於いて一般的に成仏を求める修行者を指します。

高僧などで、仏(如来)になれるが、人の救済などのために敢えて仏になろうとしない僧侶の事です。

菩薩の意味の広義化は寧ろ大乗仏教で盛んであり、時代が下るに伴って波羅蜜行に至らない修行者や、遂には在家信者も含めて衆生皆菩薩とする説が唱えられ、経論によって所説が種々不同になった。菩薩の意味の広義化に伴って、本来は菩薩乗とすべき表現を「大乗」に置き替える教説が現れ、大乗という語の意味も混乱した。此れは仏乗と表現せず如来乗を摂る教説と相まって、大乗仏教の分かりづらさの原因のひとつとなりました。

 

修行者としての菩薩

初期から、悟りを開く前の修行時代の仏陀のことを菩薩と呼んでいました。さらに釈迦の前生物語である本生話(ジャータカ)では、釈迦の前生の姿も菩薩と呼んでいました。

此の菩薩の代表として創造されたのが、次に成仏すると伝えられる弥勒菩薩です。

弥勒菩薩は56億7千万年の修行を経て、この世に弥勒仏として現れるとされます。後に阿弥陀仏となった法蔵菩薩などもこの代表的事例です。

 

現世で活動する為の菩薩

既に悟りを得ているにも関わらず、成仏を否定した菩薩も創造されました。此れは仏陀自身の活動に制約があると考えられた為で、いわば仏陀の手足となって活動する者を菩薩と呼ぶ。

この代表者が、釈迦三尊の文殊菩薩普賢菩薩です。彼らは、釈迦の働きを象徴するだけでなく、働きそのものとして活動するのです。他にも、観世音菩薩、勢至菩薩なども、自らの成仏とは関わりなく、活動を続ける菩薩です。

 

大乗僧としての菩薩

中国では、インドの有様が詳細に伝わったわけではないので、事に初期大乗仏教の学僧たちを菩薩と尊称した。龍樹菩薩、世親菩薩などとするのが是である。

注意が必要とされるのは、弥勒菩薩である。創造された一生補処(あと一回の生で仏を補う処にある)の菩薩としての弥勒菩薩と瑜伽師地論を編纂したと伝えられる弥勒(仮託説もある)とがいます。

 

観音菩薩

仏教の菩薩の一尊で、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)または観自在菩薩(かんじざいぼさつ)ともいいます。

『観音経』などに基づいて広く信仰・礼拝の対象となっています。

『般若心経』の冒頭に登場する菩薩でもあり、般若の智慧の象徴ともなっています。浄土教では『観無量寿経』の説くところにより阿弥陀如来の脇侍として勢至菩薩と共に安置されることも多く、観音菩薩は大慈大悲を本誓とします。中国では六朝時代から霊験記『観世音応験記』が遺され、日本では飛鳥時代から造像例があり、現世利益と結びつけられて、時代・地域を問わず広く信仰されています。

また、チベット仏教では化身ラマダライ・ラマ観音菩薩と位置付けられています。

 

観音経では、「衆生、困厄を被りて、無量の苦、身に逼(せま)らんに、観音の妙智の力は、能く世間の苦を救う。(観音は)神通力を具足し、広く智の方便を修して、十方の諸(もろもろ)の国土に。刹として身を現ぜざることなし。種々の諸の悪趣。地獄・鬼・畜生。生・老・病・死の苦は、以て漸く悉く滅せしむ。」とあるように、観音の慈悲が広く、優れた現世利益を持つことを述べている点が共通しています。

 

普門示現

観音が世を救済するに、広く衆生の機根(性格や仏の教えを聞ける器)に応じて、種々の形体を現じる。これを観音の普門示現(ふもんじげん)という。法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には、観世音菩薩は普く衆生を救うために相手に応じて「仏身」「声聞(しょうもん)身」「梵王身」など、33の姿に変身すると説かれています。

詳細は、観音菩薩 - Wikipedia を参照してください。

 

六観音

真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音如意輪観音准胝観音六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とされます。六観音は六道輪廻(ろくどうりんね、凡ゆる生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもので、地獄道 - 聖観音、餓鬼道 - 千手観音、畜生道 - 馬頭観音修羅道 - 十一面観音、人道 - 准胝観音、天道 - 如意輪観音という組み合わせになっています。

 

如来

仏教で釈迦を指す名称(十号)のひとつ。あるいは、大乗仏教における諸仏(仏様)の尊称。

古代インド当時の諸宗教全般で「修行完成者」つまり「悟りを開き、真理に達した者」を意味します。

 

真身如来

「如」は「真如」。真如の道に乗じ、因より果に来たって、正覚を成ずるから「如来」と名づける。

如来とは、如実の道に乗じ、来たりて正覚を成ずるが故に、如来という。(『成実論』1)
如実より来る。故に如来と名づく。…涅槃を如と名づけ、知解を来と名づく。正しく涅槃を覚するが故に如来と名づく。『転法輪経憂波提舎』
如実の道より来る。故に名づけて如来と為す。『大智度論』 24

 

応身如来

真如の道に乗じ、三界に来たって化を垂れるゆえに「如来」と名づける。応身如来

如来というは如を体し、しこうして来たる。故に如来と名づく。
問うていう。如を体ししこうして来るが故に如来と名づくとは、是れ応身なるや。来の義あるべし。真如法身、いかんが来あるや。

答えていう。本陰、今顕すが如く、また来と称するを得。(勝鬘宝窟上末) 諸仏のごとくにして来るゆえに「如来」と名づける。二身、三身に通じる。

つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。(『教行信証』「証巻」 聖典註釈版 p.307)

 

阿弥陀如来

浄土真宗に於いては、阿弥陀如来一仏を本尊とする。中心教義も阿弥陀如来の本願力にのみ帰依することとする(他力本願)。真宗に於いては、『観無量寿経』の「住立空中尊」という表現から、立像であるべきとされます。

その他の経典に於いても、浄土三部経以外にも阿弥陀如来は多くの大乗経典に登場する。 法華経の薬王菩薩本事品にも阿弥陀如来は登場し、サンスクリット語原文においては法華経の観世音菩薩普門品にも阿弥陀如来について言及されています。 仏説出生菩提心経においても阿弥陀如来の願力が言及されています。 大乗離文字普光明蔵経に於いても、大乗離文字普光明蔵経の持経者が阿弥陀如来の来迎を得ることが説かれています。

 

涅槃(ねはん)ニルヴァーナ、นิพพาน、निब्बान

涅槃とは、仏教の主要な概念の一つであり、ニルヴァーナとも呼ばれ、悟りと同じ意味であるとされます。即ち煩悩のない状態である。

この語のほか、泥曰(ないわつ)、泥洹(ないおん)ともいいます。

涅槃は、「さとり」〔証、悟、覚〕と同じ意味であるとされます。然し、ニルヴァーナの字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、すなわち煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義です。その意味で、滅とか寂滅とか寂静と訳された。また、涅槃は如来の死そのものを指します。涅槃仏などはまさに、死を描写したものです。「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」という意味で涅槃寂静といわれます。

 

釈迦が入滅(死去)してからは、涅槃の語にさまざまな意味付けが行われました。

有余涅槃・無余涅槃とわけるもの(有余とは生前、無余とは死後を意味する)
灰身滅智、身心都滅とするもの
善や浄の極致とするもの
苦がなくなった状態とするもの
など。

 

釈迦が一切を無常・苦・無我であると説いたのは、単に現実を否定したのではなく、かえって現実の中に解決の道があることを自覚したからです。

此の立場で、後に無住処涅槃という。悟りの世界では、無明(迷い)を滅して知恵を得て、凡ゆる束縛を離れて完全な自在を得る。其処では、涅槃を一定の世界として留まることなく、生死と言っても生や死にとらわれて喜んだり悲しんだりするのではなく、全てに思いのままに活動して衆生仏道に導きます。

此の様な涅槃は、単に煩悩の火が吹き消えたというような消極的な世界ではなく、煩悩が転化され、慈悲となって働く積極的な世界です。その転化の根本は知恵の完成で、故に悟りが知恵なのです。

此の点から菩提と涅槃を「二転依の妙果」といいます。涅槃は以上のように、煩悩が煩悩として働かなくなり、煩悩の障りが涅槃の境地に転じ、知恵の障害であったものが転じて慈悲として働く。それを菩提(ぼだい)と呼びます。

以上のように悟りは、涅槃の寂静と菩提の智慧の活動とを内容とします。そこで涅槃の徳を常楽我浄の四徳と説きます。悟りは常住不変で、一切の苦を滅しているので楽、自在で拘束されないから我、煩悩がつきて汚れがないから浄といわれます。

 

菩提(ぼだい)

悟りの一つで「完全なる叡智」、または「極楽往生して成仏すること」を意味します。 

 『大毘盧遮那成仏神変加持経』では「菩提とは実の如く自心を知ること」と説いています。菩提の対義語は煩悩であり、大乗仏教、とくに本覚思想等に於いては「煩悩即菩提」といい、煩悩(迷い)と菩提(悟り)は而二不二(ににふに)といって、二つであってしかも二つではないと説く。

 

菩提心とは、菩提を求める心、道心。天台宗系の宗派の多くではこのときの心とは、一念のことと説いています。

 

菩提心(ほつぼだいしん)とは、菩提を求める心を発すること。本来は菩薩十地の初地を端緒とするもので、法悦体験などから仏法を求めたり、成仏を願う心を発すことを発心として区別します。発心得度の記述は古典文学や日記によくみられます。

 

常楽我浄の四徳

常楽我浄とは、仏教とりわけ大乗仏教で、仏及び涅槃の境涯を表した語です。一般的に涅槃の四徳、または四波羅密と云われています。主に『大般涅槃経』に説かれるが、『勝鬘経』など多くの大乗経典にも登場する語です。

 

無常であるのに常と見て、
苦に満ちているのに楽と考え、
人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、
不浄なものを浄らかだ。

これを四顛倒(してんどう、さかさまな見方)という。 釈迦は成道した直後にまずこの四顛倒をただし、この世は無常・苦・無我・不浄であると説いた。これが諸行無常一切皆苦諸法無我などという仏教用語の基となっています。

 

常 - 仏や涅槃の境涯は、常住で永遠に不滅不変である。
楽 - 仏や涅槃の境涯は、人間の苦を離れたところに真の安楽がある。
我 - 仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある。
浄 - 仏や涅槃の境涯は、煩悩を離れ浄化された清浄な世界である。

 

因果論

仏教は、物事の成立には原因と結果があるという因果論を基本概念に据えています。

生命の行為・行動(体、言葉、心で成す三つの行為)にはその結果である果報が生じるとする業論があり、果報の内容如何により人の行為を善行と悪行に分け(善因善果・悪因悪果)、人々に悪行をなさずに善行を積むことを勧める事。また個々の生に対しては業の積み重ねによる果報である次の生、すなわち輪廻転生を論じ、世間の生き方を脱して涅槃を証さない(悟りを開かない)限り、凡ゆる生命は無限にこの輪廻を続けると言われています。

輪廻・転生および解脱の思想はインド由来の宗教や哲学に普遍的にみられる要素ですが、輪廻や解脱を因果論に基づいて再編したことが仏教の特徴です。

人の世は苦しみに満ち溢れています。そして、凡ゆる物事は原因と結果から基づいているので、人々の苦しみにも原因が存在します。従って、苦しみの原因を取り除けば人は苦しみから抜け出すことが出来る。これが仏教における解脱論です。

 

また、仏教に於いては、輪廻の主体となる永遠不滅の魂(アートマン)の存在は「空」の概念によって否定され、輪廻は生命の生存中にも起こるプロセスであると説明されることがある点でも、仏教以前の思想・哲学における輪廻概念とは大きく異なっています。

 

縁起

因果に基づき苦のメカニズムを整理された十二支縁起を示します。【十二因縁】

 

① 無明(現象が無我であることを知らない根源的無知)

過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。明るくないこと。迷いの中にいること。


② 行(潜在的形成力)

志向作用。物事がそのようになる力=業


③ 識(識別作用)

識別作用=好き嫌い、選別、差別の元


④ 名色(心身)

物質現象(肉体)と精神現象(心)。実際の形と、その名前


⑤ 六処(六感覚器官)

六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意


⑥ 触(接触)

六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。


⑦ 受(感受作用)

感受作用。六処、触による感受。


⑧ 愛(渇愛)愛を欲する事。


⑨ 取(執着)執着する事。


⑩ 有(存在)存在と生存権


11 生(出生)自分が産まれる事。


12 老死(老いと死)年老いて死ぬ事。

 

【以下5月6日追記】

仏教に於ける縁起とは、仏教の根幹をなす発想の一つで、「原因に縁って結果が起きる」という因果論を指します。

開祖である釈迦は、「此の煩悩があれば彼に苦があり、此の煩悩がなければ彼は苦がない、此の煩悩が生ずれば彼に苦が生じ、此の煩悩が滅すれば彼の苦を滅す」という、煩悩と苦の認知的・心理的な因果関係としての此縁性縁起(しえんしょうえんぎ)を説いたが、部派仏教大乗仏教へと変遷して行くに伴い、その解釈が拡大・多様化・複雑化して行き、様々な縁起説が唱えられるようになりました。

 

これは上記したように、煩悩と苦の因果関係としての此縁性縁起(しえんしょうえんぎ)であり、それをより明確に説明するために、十二因縁(十二支縁起)や四諦・八正道等も併せて述べられています。

部派仏教の時代になると、膨大なアビダルマ(論書)を伴う分析的教学の発達に伴い、衆生(有情、生物)の惑業苦・輪廻の連関を説く業感縁起(ごうかんえんぎ)や、現象・事物の生成変化である有為法(ういほう)としての縁起説が発達しました。

 

大乗仏教に於いては、中観派の祖である龍樹によって、説一切有部等による「縁起の法」の形式化・固定化を牽制する格好で、徹底した相互依存性を説く相依性縁起(そうえしょうえんぎ)が生み出される一方、中期以降は、唯識派の教学が加わりつつ、再び衆生(有情、生物)の内部(すなわち、「仏性・如来蔵」「阿頼耶識・種子」の類)に原因を求める縁起説が発達していく。7世紀に入り密教(金剛乗)の段階になると、曼荼羅(まんだら)に象徴されるように、多様化・複雑化した教学や諸如来・菩薩を、宇宙本体としての大日如来を中心に据える形で再編し、個別性と全体性の調和がはかられていきました。 

 

此の此縁性縁起(しえんしょうえんぎ)の命題は、「彼」が「此」によって生じていることを示しており、この独特の言い回しは、修辞学的な装飾や、文学的な表現ではなく、前後の小命題が論理的に結び付けられていて、「此があれば彼があり」の証明・確認が、続く「此がなければ彼がない」によって、「此が生ずれば彼が生じ」の証明・確認が、「此が滅すれば彼が滅す」によって、それぞれ成される格好になっています。

既述の通り、この「此」と「彼」とは、煩悩と苦を指しており、その因果関係は、十二因縁等や四諦としても表現されています。

また、この因果関係に則り、煩悩を発見し滅することで苦を滅する実践法(道諦)として、八正道や戒・定・慧の三学等が、説かれています。

また、上記した人間の内面、心理的・認知的側面に焦点を当てた此縁性の他に、

 

『凡そ生ずる性質のものは、全て滅する性質のものである』

『此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す』

 

といった、後に部派仏教で(「不相応行法」を含む)有為法として分析対象となったり、大乗仏教諸行無常の拡張的な意味として理解されるような、より広い意味での縁起も、初転法輪から『大般涅槃経』に至るまで、繰り返し述べられていることも、覚えておく必要があります。

 

 【5月7日追加】

四諦

四諦(したい)、または四聖諦とは仏教用語で、釈迦が悟りに至る道筋を説明するために、現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた4つの真理である苦・集・滅・道のことで、此縁性を実践的観点から言い換えたものです。

 

4つの諦、これらは苦集滅道と略称されます。

苦諦(くたい) - 一切は苦であるという真理
集諦(じったい) - 苦には原因があるという真理
滅諦(めったい) - 苦は滅するという真理
道諦(どうたい) - 苦を滅する道があるという真理

 

釈迦は悟りを得た後、ヴァーラーナスィーの鹿野苑に於いて、初めて五比丘のために法を説いた(初転法輪)。この時、四諦を説いたと言われています。根本説一切有部説一切有部系は、四諦を四沙門果と同義に捉えています。

パーリ語経典は、釈迦はこの四諦のそれぞれを示・勧・証(知る・実践する・確認する)の三転から考察し(三転十二行相)、如実知見を得たので、神々と人間を含む衆生の中で「最上の正しい目覚め」に到達したと宣言するに至ったとの事です。

 

釈迦は初転法輪に於いて、先ず迷いの現実が苦である事と、その苦は克服しうるものであることを明らかにしました。しかも、苦は単に苦として外にあるのでなく、我々がそれをどう受け取るのかで変わってくることを説いて、煩悩こそがすべてを苦と受け取らせる原因である事を明らかにしました。従って、この煩悩を正しく処理すれば、苦に悩まされない境地をうる。その道は、一切の自己愛を捨て、他に同化することにあるので、その根本は自己の本姿に徹することである。つまり、本来、執着すべきでない自己に執着することが、苦の原因である。この苦を滅して涅槃の世界に入る方法が「仏道」です。

 

苦集滅道、4つの真理を解説します。

 

苦諦とは、

人間にとってはこの世界の一切が苦であるという様態の真相、現実を指す。人生が苦であるということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿とされる。このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説く。

四苦とは、根本的な四つの思うがままにならないこと、生・老・病・死です。これらに、下の四つの苦を加えて八苦といいます。

愛別離苦(あいべつりく) - 愛する対象と別れること
怨憎会苦(おんぞうえく) - 憎む対象に出会うこと
求不得苦(ぐふとっく) - 求めても得られないこと
五蘊盛苦(ごうんじょうく) - 五蘊(身体・感覚・概念・決心・記憶)に執着すること

非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句の四苦八苦はここから来ています。

 

集諦・または苦集諦とは、

苦が様々な悪因を集起させたことによって表れたものです。つまり「苦には原因がある」という真理のこと。 集諦とは「苦の源」、苦が表れる素となる煩悩をいうので、苦集諦ともいわれます。集(じつ)とは、招き集める意味で、苦を招き集めるものは煩悩であるとされます。

此処での集の意味は「起源」「原因」「招集」の、何れとも解釈できます。

苦集諦とは「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としています。具体的には貪欲や瞋恚(しんに)、愚痴などの心の穢れをいい、その根本である渇愛(かつあい)をいう。これらは欲望を求めてやまない衝動的感情をいいます。

仏教に於いて苦の原因の構造を示して表しているのは、十二縁起です。十二縁起とは、苦の12の原因とその縁を示しています。苦は12の原因のシステムであって、12個集まってそれ全体が苦なのである。だから、無明も渇愛も、苦の根本原因であり、苦集諦です。

 

滅諦とは、

「苦は滅する」という真理。

 

道諦とは、

「苦を滅する方法・実践修行がある」という真理。これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道です。その七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程が八正道です。

 

瞋恚(しんに)

瞋恚とは仏教が教える煩悩のひとつで、我(自分)に背くことがあれば必ず怒るような心です。仏教で人間の諸悪・苦しみの根源と考えられている三毒、三不善根のひとつ。また、瞑想修行を邪魔する5つの煩悩、五蓋のうちの2番目の煩悩です。


瞋恚を断つ方法としては、パーリ仏典(Pali Canon)中部(Majjhima Nikāya)の62番目の経典である大ラーフラ教誡経(Mahārā­hu­lovāda­sutta)に例が示されている。この中で、釈迦は息子の羅睺羅(ラーフラ)に以下のように説いています。

『慈悲の瞑想を深めれば、ラーフラ、どんな瞋恚も消えてしまうからです。』

 

三毒

三毒とは、仏教に於いて克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩、すなわち貪・瞋・癡(とん・じん・ち)を指し、煩悩を毒に例えたものです。

三毒は人間の諸悪・苦しみの根源とされています。ブッダの説いた根本仏教大乗仏教を通じて広く知られている概念です。例えば、最古の経典と推定される南伝パーリ語のスッタニパータに、貪・瞋・癡を克服すべきことが述べられている。更に中部経典(マッジマ・ニカーヤ majjhima nikāya)においては「三不善根」(skt:akuśala-mūla, pali:akusala-mūla)として記され、3つがまとめて論じられています。三毒(三不善根)は悪の根源であり、それが展開されて十悪となります。

 

大乗仏教でも妙法蓮華経譬喩品第三の、いわゆる「三車火宅のたとえ」に「ブッダは、衆生の生老病死、憂い、悲しみ、苦悩、無知、混乱や三毒から解放する為に三界に姿を現したのだ」と説かれ、三毒などの煩悩を家についた火に喩えている他、般若経華厳経にも記載があります。

存覚が「貪欲を生じ瞋恚(怒り)をおこすことも、その源をいえば、みな愚痴(愚かさ)よりいでたり」と述べるように、三毒の根源は癡(愚かさ)であるとされます。

なお、別に三惑ともいうが、後世の天台宗学における三惑(無明惑・見思惑・塵沙惑)を指して呼称するようになったので、現在は三毒と呼称するのが常となっています。

『大乗義章』五に「三毒通じて三界の一切煩悩を摂し、一切煩悩は能(よ)く衆生を毒すること、それ毒蛇の如く、また毒龍の如し(三毒は三界の一切の煩悩を包んでいる。一切の煩悩が人々を毒するのは、毒ヘビや毒龍のようなものだ)」とある。また『法界次第初門』巻上には「毒は鴆毒を以て義とす。(中略)出世の善心を壊すを以ての故に(三毒の毒とは鴆毒すなわち毒薬の意味で、解脱しようとする善の心を壊してしまうからだ)」と書いてあります。

 

三毒を構成する煩悩

 

貪 貪欲(とんよく)ともいう。むさぼり(必要以上に)求める心。一般的な用語では「欲」・「ものおしみ」・「むさぼり」と表現する。(豚)

 

瞋 瞋恚(しんに)ともいう。怒りの心。「いかり」・「にくい」と表現する。(蛇)

 

癡 愚癡(ぐち)ともいう。真理に対する無知の心。「おろか」と表現する。 (鶏)

 

三毒を懺悔する経文として懺悔偈があり、真言宗禅宗などでは読経の前に、浄土宗では読経の中で必ず唱えることになっています。

 

【5月8日追加】

五蓋(ごがい)

五蓋とは、仏教に於ける瞑想修行を邪魔する、5つの障害、つまり5つの煩悩の総称です。

蓋とは文字通り認識を覆う障害の事です。

なお、これと似た概念として、生存者を欲界へと結び付ける5つの束縛としての五下分結という概念もあります。下分(げぶん)とは、下の領域すなわち欲界のこと。結とは束縛の事です。

 

貪欲 - 渇望・欲望。

瞋恚 - 怒り・憎しみ。

惛沈(こんちん)・睡眠 - 倦怠・眠気。

掉挙(じょうこ)・悪作(おさ)- 心の浮動、心が落ち着かないこと・後悔。

疑 - 疑い。

 

『沙門果経』という経典では、出家者が戒律を収めた後、初禅に入る前の段階として、この五蓋の除去が言及されます。この五蓋が取り除かれることで、その人には歓喜・喜悦、身体の軽安(きょうあん)・安楽・三昧が生じ、初禅へと入っていく準備が整うと述べられています。

 

【5月13日追加】

波羅蜜(はらみつ)

波羅蜜とは、パーリ語サンスクリット語で完全であること・最高であることを意味する語で、仏教に於ける各修行で完遂・獲得・達成されるべきものを指します。

般若経』では般若波羅蜜(般若波羅蜜多)ほか全6種(六波羅蜜)を、あるいは『華厳経』などではこれに4種を加え10種(十波羅蜜)を数える。

 

六波羅

六波羅蜜とは、ブッダになりうる資質を獲得するために実践する六つの項目のことです。

 

布施波羅蜜 - 檀那(だんな、Dāna ダーナ)は、分け与えること。dānaという単語は英語のdonation、givingに相当する。具体的には、財施喜捨を行なう)・無畏施・法施(仏法について教える)などの布施である。檀と略す場合もある。


持戒波羅蜜 - 尸羅(しら、Śīla シーラ)は、戒律を守ること。在家の場合は五戒(もしくは八戒)を、出家の場合は律に規定された禁戒を守ることを指す。


忍辱波羅蜜 - 羼提(せんだい、Kṣānti クシャーンティ)は、耐え忍ぶこと。


精進波羅蜜 - 毘梨耶(びりや、Vīrya ヴィーリヤ)は、努力すること。


禅定波羅蜜 - 禅那(ぜんな、Dhyāna ディヤーナ)は、特定の対象に心を集中して、散乱する心を安定させること。


智慧波羅蜜 - 般若(はんにゃ、Prajñā プラジュニャー)は、諸法に通達する智と断惑証理する慧。前五波羅蜜は、この般若波羅蜜を成就するための手段であるとともに、般若波羅蜜による調御によって成就される。

 

八正道

八正道は、釈迦が最初の説法において説いたとされます、涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳です。八聖道(八聖道分)、八支正道、もしくは八聖道支とも。この 「道」が偏蛇を離れているので正道といい、聖者の道であるから「聖道」といいます。

 

正見

正見とは、仏道修行によって得られる仏の智慧であり、様々な正見があるが、根本となるのは四諦の真理などを正しく知ることです。

業自性正見(ごうじしょうけん)- 業を自己とする正見。

生きとし生けるもの(巴: sattā)は、
業を自己の所有とする(巴: kammassakā)
業を相続する(巴: kammadāyādā)
業を(輪廻的生存の)起原、原因とする(巴: kammayonī)
業を親族とする(巴: kammabandhū)
業を依り所とする(巴: kammapaṭisaraṇā)

 

十事正見(巴: dasavatthukā sammā-diṭṭhi)


布施の果報はある(巴: atthi dinnaṃ)
大規模な献供に果報はある(巴: atthi yiṭṭhaṃ)
小規模な献供に果報はある(巴: atthi hutaṃ)
善悪の行為に果報がある(巴: atthi sukatadukkaṭānaṃ kammānaṃ phalaṃ vipāko)
(善悪の業の対象としての)母は存在する(母を敬う行為に良い結果があるなど)(巴: atthi mātā)
(善悪の業の対象としての)父は存在する(父を敬う行為に良い結果があるなど)(巴: atthi pitā)
化生によって生まれる衆生は存在する(巴: atthi sattā opapātikā)
現世は存在する(巴: atthi ayaṃ loko)
来世は存在する(巴: atthi paro loko)
此の世に於いて、正しい道を歩み、自らの智慧によって今世と他世を悟り、(それを他者に)説く沙門、バラモン、正行者は存在する。(巴: atthi loke samaṇabrāhmaṇā sammaggatā sammāpaṭipannā ye imañca lokaṃ parañca lokaṃ sayaṃ abhiññā sacchikatvā pavedenti)

 

四諦正見(巴: catusaccā sammā-diṭṭhi)
苦諦についての智慧(巴: dukkhe ñāṇaṃ)
苦集諦についての智慧(巴: dukkha-samudaye ñāṇaṃ)
苦滅諦についての智慧(巴: dukkha-nirodhe ñāṇaṃ)
苦滅道諦についての智慧(巴: dukkha-nirodhagāminiyā paipadāya ñāṇaṃ)

 

「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれるように、われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である。このように現実を厭うことは、人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが、その世俗性の否定によって、結果として、真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのです。正見は「四諦の智」といわれます。

この正見は、以下の七種の正道によって実現され、 八正道は全て正見に納まります。

 

正思惟(しょうしゆい)

正思惟とは、正しく考え判断することであり、出離(離欲)を思惟し無瞋を思惟し、無害を思惟することです。このうち「出離(離欲)」とはパーリの原文では「nekkhamma」で、世俗的なものから離れることを意味する。財産、名誉、など俗世間で重要視されるものや、感覚器官による快楽を求める「五欲」など、人間の俗世間において渇望するものの否定である。これら3つを思惟することが正思惟です。

出離思惟(巴: nekkhamma saṅkappa)
無瞋思惟(巴: abyāpāda saṅkappa)
無害思惟(巴: avihiṃsā saṅkappa)

 

正語

正語とは、妄語(嘘)を離れ、綺語(無駄話)を離れ、両舌(仲違いさせる言葉)を離れ、悪口(粗暴な言葉)を離れることです。

 

正業

正業とは、殺生を離れ、盗みを離れ、性的行為(特に社会道徳に反する性的関係)を離れることをいう。 この二つは正思惟されたものの実践です。

 

正命

正命とは、殺生などに基づく、道徳に反する職業や仕事はせず、正当ななりわいを持って生活を営むことです。

 

正精進

正精進とは、四正勤(ししょうごん)、すなわち「すでに起こった不善を断ずる」「未来に起こる不善を生こらないようにする」「過去に生じた善の増長」「いまだ生じていない善を生じさせる」という四つの実践について努力することです。

 

正念

四念処(身、受、心、法)に注意を向けて、常に今現在の内外の状況に気づいた状態でいることが「正念」です。

 

正定

正定とは、正しい集中力(サマーディ)を完成することです。この「正定」と「正念」によってはじめて、「正見」が得られるのです。

 

 四正勤

断断 - 既に生じた悪を除くように勤める
律儀断 - まだ生じない悪を起こさないように勤める
随護断 - まだ生じない善を起こすように勤める
修断 - 既に生じた善を大きくするように勤める

 

四念処

四念処(しねんじょ、巴: cattāro satipaṭṭhānā, チャッターロー・サティパッターナー)とは、仏教における悟りのための4種の観想法の総称。四念処観(しねんじょかん)、四念住(しねんじゅう)とも言う。三十七道品の中の1つです。

釈迦の初期仏教の時代から、悟りに至るための最も中心的かつ最重要な観想法であり、仏教の主な瞑想である止観の内、観(ヴィパッサナー)の中核を成す観想法です。

 

身念処(身念住) - 身体の不浄を観ずる(不浄観)
受念処(受念住) - 一切の受は苦であると観ずる(一切皆苦
心念処(心念住) - 心の無常を観ずる(諸行無常
法念処(法念住) - 法の無我(いかなる事象も自分に非ず)を観ずる(諸法無我

 

諸行無常

諸行無常(しょぎょうむじょう、パーリ語: सब्बे संखारा अनिच्चा, sabbe saṅkhārā aniccā)とは、仏教用語で、この世の現実存在は全て、姿も本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことです。「諸行」は、此の世の一切の事物と現象を指し(有為法)「無常」とは、一切は常に変化し、不変のものはないという意味。宋代の仏教書『景徳伝灯録』によれば、釈迦牟尼仏が入滅に際し、沙羅双樹の木の下で説いた言葉と伝えられています。

三法印四法印の1つ)

 

仏教の根本思想をなすもので、凡ゆる物は刹那(一瞬=きわめて短い時間)の間にも変化をくり返している。仏法の大網『三法印』の一つで、三法印は、「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の3つからなります。涅槃経に「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅爲樂」とあり、これを諸行無常偈と呼びます。釈迦が前世における雪山童子であった時、この中の後半偈を聞く為に身を羅刹に捨てしなり。これより雪山偈とも言われます。

「諸行は無常であってこれは生滅の法であり、生滅の法は苦である。」この半偈は流転門。

「この生と滅とを滅しおわって、生なく滅なきを寂滅とす。寂滅は即ち涅槃、是れ楽なり。」「為楽」というのは、涅槃楽を受けるというのではありません。有為の苦に対して寂滅を楽といっているだけです。後半偈は還滅門。

 

生滅の法は苦であるとされていますが、生滅するから苦なのではありません。生滅する存在であるにもかかわらず、それを常住なものであると観るから苦が生じるのです。此の点を忘れてはならないとするのが仏教の基本的立場です。
なお涅槃経では、この諸行無常の理念をベースとしつつ、この世にあって、仏こそが常住不変であり、涅槃の世界こそ「常楽我浄」であると説いています。

しばしば空海に帰せられてきた『いろは歌』は、この偈を詠んだものであると言われています。

 

釈迦が「諸行無常」を感じて出家したという記述が、初期の『阿含経』に多く残されています。

なお平家物語の冒頭にも引用されていて、

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)をあらわす」
現代語訳:祇園精舎の鐘の音は「世の中に不変のものはないという風に聞こえる。沙羅双樹の花の色は、栄える者は必ずや衰え滅び、長くは続かないこの世の定理をあらわしている」
また、『いろは歌』にある「いろはにほへとちりぬるを」も諸行無常を意味します。

 

諸法無我

諸法無我(しょほうむが、sarva-dharma-anaatman सर्व धर्म अनात्मन्)とは、仏教の用語の一つであり、三法印四法印の一つであり、釈迦の悟った項目の一つです。

諸行無常といわれるように、一切のものは刻々変化しています。「私」という存在も常に変化する存在である。そういう意味で全ての物には「我」(が)がない(無我)。そして全ての物は繋がり(縁起)の中で存在しています。全ての存在は孤立しているわけではなく、凡ゆる物によって「生かされている」存在であります。

 

神の存在について

有為法だけでなく無為法を含めてすべての存在には主体とも呼べる我がないというのは、他の宗教に言われるような「神」などの絶対者もまた無我であることを意味する。これは絶対者の否定ではなく、神などもまた我々との関係の上にのみ存在することを意味しています。 仏典の中にも神が出てくる場面が多いけれど、絶対者としての神ではなく、縁起によって現れたものと見るべきです。その意味で、仏教は他の宗教と根本的な違いを持っています。

 

仏教に於ける聖人

法然(浄土宗)
親鸞浄土真宗
日蓮日蓮宗
空海真言宗
最澄天台宗

 

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