美少女ロボット計画2006 〈第2章 美少女ロボット計画の歴史〉

美少女ロボット計画

2、美少女ロボット計画の歴史~in 高田聖矢~
美少女ロボット計画の歴史は2002年から始まっています。ダ・カーポや、それは舞い散る桜のようにが発売される少し前、2002年5月24日、中学の修学旅行から帰って4日後、僕は等身大の女の子のぬいぐるみを作ろうという気持ちに目覚めました。5月17日、修学旅行出発前日の晩に、僕はその修学旅行のしおりの表紙絵に色を塗ったことがきっかけになった。当時の僕はその女の子の絵に惚れるくらいだったので高井さやかを初めて見た時は一目惚れするほどだった。
2002年6月12日、中間テストの社会の問題用紙の裏に初の計画書を書いた。サモンナイト2の女の子主人公の絵を真ん中に書いて、左右に設定や機能を箇条書きした。題名は『等身大ロボット人形計画』でした。元祖美少女ロボット計画 2002年版です。何故「ロボット人形」としてあるのかというと、人形は朝起きてもずっと目を開けたままである。
お風呂に入れるとぐしょぐしょになり重くなり乾くのに時間がかかる。(美少女ロボットが何故お風呂に入ることができるのかは第8章で説明します)話かけても喋らない。瞬きしない。やがて自分の体臭や染みがついて臭くなる。といった欠点があるからです。
それを改善し克服したのが美少女ロボットです。この『ロボット』という単語が付いたことで計画が発展し、現在の『美少女ロボット計画』となりました。FiFA日韓ワールドカップや秘密基地作りなどで青春していた14歳の僕でした。
15歳になってから僕は次第にロボットを意識するようになりました。2002年11月26日、暫定企業名『株式会社コパメイド』と決定しました。中学校のアルバムにも「コパメイド設立するん」とか「アンドロイドがんばれ」とか書かれてあります。
神戸村野工業高校に入学してから本格的な計画書を書く活動を始めました。
2003年5月1日、2003年版の計画書を図書室で書き始めました。当時の名称は『美少女キャラクターロボット化計画』でした。この時期に登校途中の電車で知り合った3年の井出先輩たちと知り合い、井出先輩が略して『美少女ロボット計画』と呼んだのが始まりで、2003年6月19日に『美少女ロボット計画』が正式名称になって現在まで引き継いでいます。2003年版の計画書は図もあって5ページあります。これも箇条書き気味の傾向があり、手書きです。6月25日で書き終りました。この頃はレゥに惚れてました。まだ乱雑で稚拙な計画書でした。ここまでが15歳の僕です。
次は芙蓉楓やプリムラに惚れました。2003年12月26日に2004年版の計画書を書き始めました。ここで初めて長い文章で書き著すようになり、手書きノート14ページで約2万字(原稿用紙50枚分)で書かれてあります。それでも文章はまだ乱雑な部分が多いです。2004年11月18日に書き終り、技術的な説明編の途中で17歳になりました。その11月中にこれを洗練した、文化祭(2年生)に貼り出すパソコン版の計画書5ページで約6100文字で書きました。(MSN上にdocファイルを置いておきます)手書きのよりも文章が飛躍的にしっかりとしています。これが2005年版の計画書の手本になり、2005年版は4月28日から7月28日まで、20ページで約2万6800字(原稿用紙68枚分)で書かれてあります。第1章だけで3000字(原稿用紙7~8枚分)あります。2005年版からは難しい漢字がいたるところに使用しています。2005年(3年生)の文化祭ではパソコンまで持ち出して深夜美少女アニメを披露してラムネのポスターを壁に貼ってG'sマガジンや他のポスターやチラシ、フィギュアなど、そして改造カセットテープ機器と計画書も含めたアキバ系マニアコレクションを文化祭で披露したのだが教頭先生に止められました。
そして現在、18歳の僕は(伊里野加奈など紫のロングヘアー美少女にも惚れていた)何も書けなかったが、19歳になってWebに進出してこの美少女ロボットのブログを作り、2005年版の計画書をさらに洗練した2006年版を書いています。
未だにロボット業界では美少女ロボットを真面目に考える人が誰もいませんね。もうこのテーマで初めてWebに進出している僕しかいません。この計画の主導権は完全に僕のものになっています。
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